マヤが憔悴しているので、今日は泊まりに来ないかと言ってみただったが、疲れたしひとりになりたいと言うので、途中で別れ、ふたりは手を繋いだまま家に帰ってきた。
マヤから連絡を貰った時、は常備菜を作っていて、それらはキッチンに放置されていた。何も考えずに帰ってきてしまったが、型板ガラスの向こうはすっかりオレンジ色になっていた。薄暗いキッチンは夕日の柔らかな光で満たされていて、ふたりは同時にほっと息をついた。やっと安心できる場所に帰ってこられた。
「……ひとまず、キリちゃんに連絡しよっか」
「じゃ、オレは実家に」
「学校、大丈夫だったの?」
「校長と教頭しか事態を把握してないから、今のところは」
「てか学校なんて簡単に入れないはずでしょ」
「生徒の親を名乗って入ってきたらしい。だからそれもちょっと問題になってるところ」
春休み中で生徒がいなかったことが不幸中の幸いだったわけだが、それでも無関係な人物を校内に招き入れてしまったのはセキュリティ上大変よろしくない。それ自体は公延のせいではないので、あまり強いお咎めはなかった模様。ただし明日は朝から事情説明で校長室。呼び出しを食らった生徒の気分だ。
「メシ、どうする? 疲れただろ」
「うーん、そんなに疲れてないけど、これ片付けないとだし」
「……ドライブ、行くか?」
「……ううん、それはもっと桜が咲いてからがいいかな」
寒の戻りで桜の蕾は沈黙を続けている。それに、異常なことが続いたので、安心できる家の中にいたかった。
なのでひとまず高梨家と公延の親に報告の電話を入れたのだが、それぞれ何があったのと捕まってしまい、キッチンの片付けに取りかかる頃にはすっかり日が暮れていた。なので作ったばかりの常備菜で食事を済ませ、それの片付けも終わると20時を回っていた。
「、マヤさんひとりで大丈夫か?」
「今のところ大丈夫そう。ショックだけど吹っ切れたところもあるって」
「……オレに遠慮せずに力になってやりなよ」
「うん、そうする。ありがとう」
「聞きたくなくてスルーしてたけどキリちゃん大丈夫か」
「そっちは全然大丈夫じゃない。ブチギレてた。過去イチキレてる。シュウジくん涙目」
きれいに片付いたキッチンで公延はがっくりと頭を落とした。そうでしょうね。
しかし高梨夫婦は実際にモトヒロの襲撃を受けているし、大袈裟にならない程度には謝罪をせねばなるまい。それに、モトヒロが今回の件ですっかり改心するかどうかは見込みがないし、おそらく近い内にまた公延の実家で会議をしなければならないだろう。
というかこの件のせいでエマからの唐揚げ要請はしつこいし、晴子が久し振りに会いたいと言っているらしいし、の祖父母はまた遊びに来いと言うし、問題は一旦片付いたように見えるが、ふたりに暇はない。というかは受験も終わったのだし、出来るだけ早めにアルバイトを始めたかった。
寒の戻りで4月とは思えないほど寒い木暮家だったが、ゆっくり風呂に浸かって温まると今日一日の怒りや憤りが湯に溶けて流れていくような気がした。しかしそんな緩んだ気持ちで部屋に戻ったは、机の上の書類を見て我に返った。入学式が目の前だった。
慌てたは案内を手に部屋を出て公延の部屋のドアをノックした。
こちらも風呂上がりスウェットだった公延は、案内を手に「忘れてた」という顔をして仰け反った。
「でも小学生じゃないんだし、そんなに畏まらなくてもいいよね?」
「スーツとか用意してあるか?」
「ないです……」
「キリちゃんの服着られたよな?」
「た、たぶん、スーツ持ってるかな」
「結婚前は毎日スーツだったから一着くらい持ってるんじゃないか」
「わかった、聞いてみる。ていうか公ちゃん来るの?」
「えっ、行った方がいいの?」
「えっ、いや別に特に必要はないけど」
「母さんが行きたがるかもしれないな……」
「それもさすがにどうかな……」
「ひとりで平気ならそれでいいけど、もし誰か出席するならマヤさんでいいんじゃないのか」
「そだねえ。そっちも聞いてみるわ」
「当日は日曜だし、終わる頃迎えに行ってもいいよ」
「え、ほんと? じゃあ頼もうかな……」
そもそも入学式自体が出席必須ではないので、ざっくりとではあるが、話がまとまったのでふたりはうんうんと頷きあった。予期せぬトラブルで数日を無駄にしてしまったが、ふたりの暮らしの新たなスタートはもう始まってしまう。というかここからが本番なのだ。これまでは準備期間でしかない。
なので、そのまま部屋を出ようとしただったが、足を止めた。
「あのさ公ちゃん」
「ん?」
「……私たち、結婚したままで、いいんだよね?」
「……うん」
「私、木暮を名乗るけど、それでいいんだよね?」
「うん」
「結婚してることも隠さないけど、それで本当にいいんだよね?」
「うん」
また俯き気味に前髪をかき混ぜていた公延だったが、ベッドにどさりと腰を下ろすと、大きく頷いた。
「……オレも、新学期からは隠さないことに、したから」
「え!? それは……」
「どうせ受け持ちは1年生だけだし、去年の子たちは授業なくなるし、もう高校生じゃないんだし」
「それで、いいの?」
も隣に腰を下ろし、念を押す。
「……お前の幸せを一番に考えたいって言っただろ。ここ数日ずっと考えてたけど、それってどう考えても今の生活をこのまま続けるってことだろうし、今は特に、こそこそ隠れて暮らすんじゃなく、ちゃんと夫婦になりたいんだろうなって、思ったんだけど、違う?」
はぶんぶんと首を振った。合ってる。正しい。それが私の幸せの絶対条件。
「だから言ってくれたの、私の妻だって」
「あ、いやそれは」
「え、まさか勢い」
「え、違う、だから、それをずっと考えてて、自分のことも考えて、ちゃんと理解しようとしてて」
体を起こした公延はに向き直ると、手を取った。
「それは、オレがこの結婚を心から受け入れるってことで、を妻として、家族として、思えるかどうかだってわかったんたけど、それをまたグズグズ悩んでたんだよ。けど、樫井の家に行ってくるってライン見た時に、一瞬で腹が決まったんだ。の幸せも、オレの幸せも、ふたりでいること、こうやって向き合って夫婦でいることだって。だから言ったんだよ、妻だって。今度こそ、心からそうであってほしいって、思ったから」
の頬に伝う涙を指で払い、公延は微笑む。
「それでいいかな。オレが夫で、家族で、大丈夫か?」
「そんなの、最初から、私はずっとそう思ってたもん」
「そうだったよな。ビビってたのはオレだけ」
鼻で笑った公延は背筋を伸ばし、咳払いをひとつ。
「その、改めて、これからもよろしく」
「わ、私も。これからもずっと、よろしくね」
「…………、あなたの、ことが、大好きです」
「公ちゃん……!」
公延はワッと泣き出したを引き寄せてギュッと抱き締め、目を閉じる。
「桜が満開になったらふたりで見に行こう」
「うん」
「ドライブもしばらくしてないから近いうちに行こう」
「うん」
「まだ寒いうちに鍋もやりたい」
「うん」
「新学期から指輪付けたいから一緒に見に行ってくれない?」
「うん、行く、私もほしい」
「新婚旅行も行きたい」
「うん、行きたい」
「今すぐじゃなくていいから、犬飼いたい」
「うん、犬、いいね」
「もやりたいこと、なんでも」
頭を撫でる公延の手には泣きながら何度も頷き、そして言った。
「私、私は」
「なんでもいいよ、ふたりでやろう」
「今日、ここで、寝たい」
驚いた公延はを解放し、ぽかんとした顔をしている。
「夫婦だし、ちゃんとお互い好きだし、私もう、高校生じゃ、ないから」
「そういう……意味?」
「そういう、意味。今日は、私を愛して、幸せにして、ほしい、ここで」
涙に濡れた頬ではにっこりと笑う。そんな妻にキスした公延は、そっと、けれどしっかりと唇を重ね合わせ、ゆっくりと捏ね回した。粘着質な音が響き、泣いていたせいで荒かったの吐息が何度も漏れる。
「……こういうことするけど、いいの?」
「いいの」
「オレのことも愛して幸せにしてほしいんだけど、出来る?」
「出来る。公ちゃんのこと、誰よりも好きだから」
「……オレも。オレも好き。、大好きだよ」
「私も、公ちゃん、好き、大好き……!」
言いながら、キスを繰り返しながら、ふたりはベッドに倒れ込んだ。すぐに起き上がった公延は部屋の明かりを落とし、エアコンを強くし、そしてまたに覆い被さると、メガネを外してベッドサイドに置いた。公延の柔らかな前髪がの額をくすぐる。
「……ずっと、一緒にいよ」
「……うん。毎日、一緒に、いてね」
軋むスプリングの音、重なるふたりの息、切なげな声が静かな夜に混ざり合う。
桜の蕾がそよぐ寒風に揺れる春、こうしてふたりはまた、夫婦になった。
朝チュンならぬ、朝カラスの鳴き声では目が覚めた。重い瞼、違和感のある枕、強張る体。そこで蘇る昨夜の出来事。だがまだ覚醒しきれず体が動かない。それに焦れてもぞもぞしていると、背中が温かくなった。
「起きた?」
「ま、だ、半分、だけ」
「眠かったらまだ寝てていいよ」
「へいき、うごく」
やけに重くてだるい体を無理矢理動かしたは、少しだけ体を捻る。開ききっていない目の向こうには、メガネがなくて前髪が片側だけ浮き上がってしまっている公延の顔があった。
「おはよ」
「おは、よ」
「体、大丈夫か。痛いとこないか」
「なんとなく、全体的に、軽く痛い」
「緊張しすぎて全身に力が入りまくってたからな……」
なので軽く全身筋肉痛状態のは、公延に抱き寄せてもらって寝返りを打った。
「だってまさか、あんな上手く出来ないとは思ってなかったんだもん……」
「そりゃしょうがないよ、初めてだったんだから。でもなんとか出来ただろ」
「自分から誘っといてこれじゃ捨てられると思った」
「だから、そんなことしないって」
「せっかく両思いになったのに離婚だよこれって」
「思ったんじゃなくて普通に言ってただろ。そんなことしないってオレ何回も言ったのに」
「公ちゃん脱いだらすげえイケメンじゃん体超きれいって興奮マックスだったのに」
「脱がないとダメなのか」
「そんなことないです公ちゃんのスーツとコートとメガネのセットは卑怯です」
一応ことは無事に済んだと言っていいのだが、それでもは緊張しまくり力みまくりで、スムーズにはいかなかった。なので余計に疲れた。頭を撫でてくれる公延の手の暖かさに癒やされる。
「まあ、色々すっ飛ばしすぎだとは思うよな……5回しかキスしてないのに」
「そういうのは経験者が上手くリードしてよ」
「昨日のあの状況で出来るわけないだろ、そんなこと。こっちだってテンション上がって」
「えっ、テンション上がったの?」
「えっ、だってそれは、やっと好きって言えたと思ったら誘われたんだから、テンション上がるよ」
「嬉しかった?」
「嬉しかった」
「誘われたら嬉しいの?」
「嬉しい。想像以上に嬉しかったし、なんか、幸せだった」
一転、公延がなんでも素直に話してくれるようになったようで、は嬉しくなってギュッと抱きつく。今はスウェット越しだけど、全身の素肌と素肌が触れ合うのは最高に気持ちよかった。その他は何ひとつ上手く出来た気がしなかったけれど、それだけは意識が遠くなるほど気持ちがよかった。
「早く上手く出来るようになりたいな……」
「じゃ、練習だな」
「練習!」
「体使ってやることなんだから、地道な練習が近道」
「色気ゼロなのに変にエロくてやだなその練習て」
「エロいことなんだから同じだろ」
「慣れてないんだからもう少しムードとか」
「えっ、なかった?」
「今はない」
「今いる?」
「少しは」
「めんどくさいな」
「公ちゃんはそのめんどくさい癖、少しは直そう」
「めんどくさい」
「ちょっと、愛しの妻のことなんだからめんどくさい禁止」
布団の中でくすくすと笑い合っていたふたりだったが、その公延の背後でアラームが鳴った。今日の公延には朝イチで校長室に出頭という気が重いイベントが待ち構えている。
「怒られないといいね」
「怒られるってことはないと思うんだけど、あれをなんと説明したものか」
「なんでも好きなように言っていいよ。てかお弁当どうする」
「持ってく。あと今日からは頑張って早めに帰ってくるから」
「そんな、無理しなくていいよ、出来ることはやっておくし」
「……早く帰ってきて、練習しなきゃいけないだろ」
「ふぁ!?」
素っ頓狂な声を出した、公延は笑って額にキスをし、メガネをかけながら立ち上がると、妻の体を抱きかかえるようにして引っ張り起こした。
「やらなきゃいけないこといっぱいあるんだから、ぼんやりしてられないぞ」
「私、新しく始まることばっかりで目が回りそう……」
「だから毎日少しずつ、が大事なんだろ」
「毎日! 公ちゃんデレすぎじゃないの……」
「なんのこと言ってんだ?」
「ちょ、汚い!」
「新婚なんだからいいじゃないか、そのくらい」
「だから何の話!」
そのまま慌ただしく朝の支度を始め、公延はいつも通りの時間には玄関に立った。昨日と同じスーツにコートだが、公延のダッフルコートはやはりちょっと毛玉が付いている。マフラーはがクリスマスに贈ったもの。
「4月に入ったのにどうよこの寒さ……」
「じゃあ今日は早速鍋にしよっか」
「いいね。ドライブは入学式のあとかな……」
「その前の土曜に指輪見に行こうか」
「あっ、それ頼む。てかそのへんの事情まったくわからないんだけど」
「いいよ、調べておくね」
「すまん、よろしく」
「じゃあ頑張って怒られてきてください」
「オレが悪いことしたわけじゃないのに……じゃあはキリちゃんを宥めておいてください」
「それは無理」
「ずるい」
「今日の鍋は公ちゃんの好きな鳥つみれをいっぱい入れようね〜」
「そっ、それなら、んっ、キリちゃんは免除」
玄関先で笑いあったふたりは、互いに手を取って引き寄せ合い、静かにキスをする。
「昔の新婚さんだな、これじゃ」
「いってらっしゃい、あなた。待ってるからね」
「……マジで早く帰ってくるから、ほんとに、待ってて」
名残惜しそうな公延を送り出し、車が見えなくなるまで見送ったはやけに冷たい4月の風にふと空を見上げた。母を失ったのもこんな寒い風の吹く春の日だった。現実感もなく、五感は鈍くなり、食欲を忘れ、流れ出てくる涙の意味もよくわからなかった。その時、という人間の一部が死んだのだと思っていた。元義父に召使扱いされていた頃には心まで死に、ただひたすら影のように生きていた。
けれど今は、全身余す所なく生きている感じがした。昨夜ようやく迎えた「初夜」に、死んだと思っていた心と体は息を吹き返し、公延が惜しみなく注いでくれる愛情が体の隅々まで行き渡り、母を失って以来見失いがちになっていた現実に手で触れた気がした。
今ようやくスタートラインに立った、この日のこの空をずっと覚えていようと思った。
母を亡くして失ったと思っていた全ては今ここからまた始まる。愛すべきいとこ夫婦、友人たち、そして家族。それらも全て抱えて生きていきたいと思った。毎日少しずつ、積み重ね積み重ね、いつかそれが夢に描く未来へと連れて行ってくれるはずだから。
明けても暮れても、この空の下に夫とふたりで。
END