ダイキの主張を要約すると、サヨがこんなに早く死んだこと、未成年後見人を含めの生活の面倒を見たこと、それにより自分の収入や財産にロスが出たこと――これらが、ひいては家による「加害」だというもの。サヨがいなくなったことで増えた負担、サヨがするはずだった金銭的なサポート、それが家から補填されないのもおかしい、という。
なので、ブチギレたダイキは木暮たちに庇われているに向かって、慰謝料を払えと叫んだ。
だが、慰謝料はもちろんのこと、ダイキの主張は全てにおいて証拠がなく、が相続したサヨの遺産を含め、違法性はない。強いて言えばこの1年間の生活費であるが……
「そちらが負担した生活費、一円単位まで領収書を揃えてご請求ください。慰謝料や遺産についても、どうぞ好きなだけ訴えてください。映像、音声、第三者の証言、診療記録、この18歳の高校生がそちらに対して不当な財産の侵害や、精神的な攻撃を仕掛けたという証拠を揃えて、訴えてくださって構いません」
それが通らないことは全員承知なので、木暮に畳み掛けられたダイキは返答に困ってぐっと喉を鳴らした。生活費は当然ながら、が浪費したという証拠もなく、サヨの遺産は元々問題がなく、慰謝料ならの方がよほど請求に正当性がある。ダイキはキレて喚いて発散と脅しをしているに過ぎないので、動じない上に自分より身長の高い男に出てこられると、戦意を喪失し始めた。
「それから、私がさんと入籍する必要があるのは、そんなことをしなければならない状況になっているのは、あなたのような人間と同居せざるを得なかった彼女の人権を守るためであり、向学の意思を持つ高校生に学業を修めさせるためです。性的虐待についてはキリエさんの早とちりでしたが、結果的にそちらが未成年に対して1年間も支配的に抑圧や暴力による虐待を行っていたことは、こちらに充分な証拠があります。そして何より、サヨさんを失ったことは、ここにいる全ての人にとって、特に血の繋がった親御さん、娘さんには大き過ぎる損失で、あなただけが不遇なのではありません!」
さすがに教壇に立つ仕事をしているだけあって、木暮の言葉は淀みない。ですらポカンとしている。ずれたメガネを指で押し上げた木暮は上半身を傾け、ダイキを真正面から睨みつける。
「夏休みですからいい機会です。お望み通りさんには家を出てもらいます。そしてあなたは姻族関係終了届を早急に提出してください。こちらも分籍をします。それが済んだらあなたは完全に無関係の他人です。以後のことは慎重に行動なさるのがよろしいかと思いますよ」
途端にしょんぼりしてしまったダイキは、とりとめのない侮辱を繰り返すばかりの母親に伴われてすごすごと高梨夫婦の部屋を出ていった。まだ頭に血が登っているキリエが玄関と廊下で「二度と来るな」と言いながら塩をまいていて、腰が抜けたままのの祖父母をマヤが泣きながら気遣っている、その傍らで、木暮はポカンとしているの正面に片膝を立てて座った。
「勝手なことしてごめん」
「う、ううん、平気……」
「……他にも選択肢はあるはずだと思うんだけど、もう時間もないし、あの家に戻るよりは」
リミットはとっくに過ぎていた。ダイキの抱える不満という爆弾や、もし受験をするならこの夏を無駄に出来ないという事情もあるし、これ以上は無理だ、という木暮の決断だったわけなのだが、はどこかホッとした表情をして、木暮を見上げていた。
「ありがとう先生、私、先生と結婚する」
全員がまともに喋れるようになるまで20分はかかっただろうか。木暮家お裾分けのカルピスが振る舞われ、やっと人心地ついたところで、今度は並んで座ると木暮が本当に結婚すると言い出した。
「ただ……私の考えとして、これは暫定的な回避策ということでいいのでは、と思うところがあります」
義父のあの異常行動を前にしては、もはや誰も反対する気がないわけだが、木暮は一応述べる。
「お祖父様お祖母様の世代に比べれば、今の結婚離婚は気軽に出来るものだと思いますし、それが我々の人生に暗い影を落とすほどのものではないと思います。今はとにかくさんを来栖の人間から引き離すこと、受験を最優先に考えること、これが何より緊急事態だと思いますので、一旦は木暮の籍に私の妻として迎えることにはなりますが、さんが無事に学生を終えるなり、学生の間に生活の手段を得るなりした場合は、関係解消すればいいのではないかと。まあ、養子縁組でもいいのかもしれませんが……」
だが、養子縁組は結婚と違い、一度それの関係を作ってしまうと、以後は養親の血族とみなされ、代襲相続の可能性など面倒もある上に、異性で年齢が近いと悪用を疑われる場合もある。あくまで他人として籍に入る結婚の方が、後々の関係解消を考えても後腐れはない、と考えられる。
「ですから、さんに同意は得てませんが、僕はこれを一般的な結婚とは思っていません。結婚式もしませんし、指輪もしません。さんは姓を名乗るのがいいと思いますし、あくまでも制度の利用、さんが安心して受験に備え、学生生活を送れるようにする、そのための措置として。私は家族としてそれを支えたいと思います。いかがでしょうか」
この場において最も近い親族であるの祖父母は、ふたり揃って大きく頷いた。
「世間様から見たら奇抜なやり方なのかもしれませんが、こんなありがたいお話はありません」
「は、それでいいのよね?」
祖母に問われたもしっかり頷く。
「先生は、お母さんが『いい人だね』って言ってたから。『ああいう人はきっと家族を大事にしてくれると思う』って言ってたから、私はお母さんを信じる。だから、ちゃんとやっていけると思う」
これには皆の涙腺が緩み、泣き笑いになった。やっと問題が先に進みそうなのもホッとした! なので木暮はちょっと姿勢を崩してニヤリと笑った。
「それにひとつ、これだけはいいことですよ」
「いいこと?」
「これでも教師ですので、さんは絶対志望校に合格させてみせます」
全員の歓声と拍手の中、木暮は「でも予備校は早めに決めような」とにこにこ笑顔だ。それを見たも表情が緩んだけれど、彼女は心の中で強く育つ気持ちに抗えずにいた。
私は偽装結婚のつもり、ない。普通に、普通のカップルがするみたいに結婚でいい。木暮になって、先生の妻になって、パートナーとして、この先の人生を送っていきたい。離婚なんかしないし、いつか先生の子供を産むし、ずっとずっと一緒にいたい。
だって先生のこと好きだから。恋愛の意味で好きだから。好きになってしまったから。
「孫ーーーッ!!!」
夏休みなのだから即実行、となったわけだが、ここに来て一番テンション上がってしまったのが木暮の母である。親しい友人たちが全員孫持ちになってしまい、このところ「孫欲」が急激に強くなっていた。公ちゃん早く嫁探してきてよ孫ちょうだい!!!
しかしひとり息子は就職以来女の影がなく、忙しいからそういうのはまだ別に、を常套句にしていて、彼女は人ん家の幼児を見ては「孫ォォォ」と歯軋りをしていた。
そこに突然現れたのがだった。息子と甥っ子夫婦に事情は聞いたけれど、彼女にとっては「私のかわいいお孫ちゃんを産んでくれるかもしれない女」だったようで、上機嫌だ。がまだ18歳の高校生ということは見て見ぬふりを決め込む模様。
そういう意味の結婚ではないと何度も言っているのに孫孫うるさい母親に、木暮はしかめっ面。
「母さんそれ本当にやめてくれ。孫は出てこない。あの子は嫁じゃない」
「大丈夫大丈夫、ふたりきりで一緒に暮らせるんだからそのうち嫁になるって」
「だとしてもそういう類の話は絶対にするなよ」
「言うわけないじゃない離婚されたら困るもの。あんたを焚き付けてんのよ」
「オレも聞きたくないからやめてくれ」
木暮母は挨拶に現れたを一目見て「この子はうちの子に好意がある」と見抜き、以来息子の苦言は雑にあしらっている。そしてそこに求めてやまない孫の可能性を見た彼女は、ふたりの良き理解者と支援者になると決めたのである。私には息子しかいないんだから下らない対抗心で嫁をイビったら孫が遠のくのよ。
の引っ越しは木暮の発案で2回に分けられ、部隊がふたつ組まれた。まずはと共にダイキの暮らすマンションから荷物を運び出すチーム。これは木暮が一計を案じ、バスケット関係の友人を集めた。全員木暮より大きく、最大で身長197cm。なのでブチギレの勢いはどこへやら、ダイキは顔も出さなかった。
なので運び出しは梱包も含め3時間ほどで終わってしまい、それらの荷物は一旦木暮の実家に運び込まれた。不自然な笑顔の木暮母が「ぜひこの家を実家と思ってね〜」と猫なで声を出していたが、も不快には感じていないようで、よろしくお願いしますと頭を下げていた。
それを前後して母親に尻を叩かれたダイキはようやく姻族関係終了届を提出。晴れて家は来栖家と縁が切れた。そして一時的にではあるが、は分籍という形でとなり、学校にも事情を報告した。
これには担任が非常に困惑し、木暮とは10も年の差がない同業者な上に幼い女の子の父親だからか、あまりいい選択だとは思えないと反対をした。だが一方の副担任の女性は「さんは18歳になって成人した大人の女性なのだから、その決断を支持します」と言ってくれた。
在学中の婚姻は不可、なんていう校則はないけれど、卒業まではと名乗ること、夏休み中に転居すること、そして何より進学のために受験生になれることが報告されたので、その点についてはふたりとも本当に喜んでくれた。元々の志望校は無理でも、が可能性を模索できる進路を一緒に探そうと言ってくれた。
その頃木暮も信頼を置いている職場の教頭に事情を全て説明していた。もちろん女子高生と結婚しましたなんてことは誰にも言わないわけだが、万が一後でバレて騒ぎが大きくなってからでは聞く耳を持ってもらえないかもしれないので、最も信用できる人物であった教頭に洗いざらい告白した。
18歳成人が始まったら在学中に結婚する生徒が出てくるかもしれない、ということは覚悟していたけれど、まさかそれより先に教師がやるとは、と半笑いだったが、の事情には理解を示してくれて、通える範囲なら学生時代の友人が予備校を経営しているから声をかけてあげるよと言ってくれた。
なのでとりあえず木暮は職場では結婚を公表しないこととし、最終的には校長と教頭と事務方のみが把握するにとどまった。元々木暮は同僚とプライベートにまで踏み込んだ付き合いをしていなかったので、変化はない。
一方は高梨家に居候をしつつ、慌ただしい日々を送っていた。というのも、関係者で協議の結果、木暮とは「ふたりとも馴染みがない街で、ふたりだけで暮らす」ことと決まったので、の志望校と予備校の絞り込みが急務になった。
ふたりの住居の条件は、木暮の職場との志望校の中間地点であること、分かる範囲で知人がいない街であること、ふたりの個室が確保されている一戸建てであること。なのでの担任副担任は連日と相談を繰り返し、条件に当てはめられそうなキャンパスがあり、学費が祖父母の支援内で済みそうな、の成績に照らし合わせて難関狙いにならない大学を選んだ。
その結論が出ると今度は新居探しなわけだが、木暮は普通に仕事なので時間が少なく、不慣れなだけでは不安ということで、目に孫の文字が踊りっぱなしの木暮母が名乗りを上げた。木暮家はわかっているだけでも戦前から現在の住所地域に暮らしており、そのぶん知り合いやらツテやらコネやらは多かった。なので小躍り状態で方々を当たった木暮母は、電光石火で物件を見つけてきた。
「建物自体はそこそこ古いんだけどね、耐震もやってあるし、中は全部リフォームされてるの。最近昭和レトロって流行ってるでしょ、あんな感じでね、古さを活かしてきれいに直してあってね、まあちょっと土地は狭いっちゃ狭いんだけど、あんたの指定通り個室が確保できてる3LDK!」
場所も条件通り、周囲は新築から空き家までが混在していて横の繋がりは希薄、駅からは少し遠いものの、バス停が近く、買い物は駅周辺以外にも充実。これも狭いが敷地内に駐車場が確保されていて、一番近い駅まではそこそこ平坦なので自転車でも無理がないという。
「そして何より! これコンちゃんが持て余してた空き家なの! 確かに死んだ親の家だけど親が死んだのは病院だからセーフ! その上値引き交渉成立済み! 家電は好きなの買っていいけど、エアコンは新品設置済みだからすぐ入居できるって!」
コンちゃんは彼女の幼馴染で親戚感覚の知人だが、よくあるように親の住んでいた家を持て余し、投資のつもりでリフォームをして売り出したのが今年の6月だったのだという。築年数は高いし、広くもないし、そう簡単に売れるとは思っていなかったとかで、値引き交渉もスムーズだったと木暮母は得意げだ。
というわけで一応実物も見学に行った木暮とだったが、キリエとシュウジが一緒だったので、特にふたりで新居についてを語り合うこともなく、ありとあらゆる場所の寸法を測りまくって即決をしてきた。
それが8月の初旬。急いで入居の手続きを取り、すぐに必要な家電を決め、あるいはに任せてもいいものは木暮は積極的に投げた。共用部のカーテンやトイレタリーなどがそれにあたり、それでも何もかも初めてのことで戸惑うには木暮母がついて回り、あとは入居するだけ、というタイミングで木暮の夏休みに入った。
事情を知る教頭が取り計らってくれたので木暮は夏季休暇に週末と有給を合わせて10日間の休みを取った。今のところ木暮は担任もなければ部活顧問もやっていないし、研修や勉強会も他に比べると少ない教科なので、休みを活かして新生活の準備を完全に終えてしまおうと思ったのだ。
なので今度は引越し第二陣、木暮家と高梨家からの荷物を移動し、現在の木暮の住まいからも荷を運び、家電を設置し、という作業を繰り返した。しかし3箇所から搬入の上に第二チームは入れ替わりが激しくまとまりもなく、結局全てが片付くまでは高梨家、木暮は実家に寝泊まりしていた。
そんな慌ただしい引っ越しが終わり、木暮の夏休みが残り4日、という頃になって、ようやくふたりは新居に移ってきた。そしてその当日に入籍をした。疲れ切っていて感慨も何もなかったのだが、ひとまずこれでは木暮となり、法的には木暮の妻となった。
疲れでぼんやりしたまま自宅に戻り、しかし落ち着かないのでダイニングで冷たいお茶など飲んでいたのだが、改めて振り返ってみると、結婚という関係になったというのに、例の高梨家での騒動以来、一度もふたりきりで話すことがなかった、と気付いた。
家財の相談があったので、連絡だけは文字で毎日ひっきりなしに取っていたけれど、これからの暮らしについてだとか、お互いについてだとか、そんなことは一切話していなかった。というかは今日まで木暮が一体何歳なのかすら知らなかったし、職場がどこなのかも知らなかった。
「さすがにそこまで知らないまま結婚したっていう人は珍しいだろうな」
「私たちの場合、親戚繋がりだから心配はなかったけどね」
とにかく高梨夫婦という「繋ぎ」があったことが幸運でもあった。遠縁と言うだけあって、血縁はないけれど身元は保証されている状態だし、そこはどちらも誤魔化しようがないので気にならなかったとも言う。
しかし夫婦としての実態はなくとも共同生活である。互いのことを何も知りませんでは話にならないので、ふたりは改めて自己紹介を始め、一気に覚えられないのでメモを取りつつ、スケジュール共有アプリを入れ、ざっくりと今後のことを話し合った。
ひとまずは木暮の夏休みが終わり次第、予備校が始まる。さらに当分の間は塾も並行して通う。それだけは最優先に決まったのだが、生活全般の役割分担だとか、お金の話だとか、そんなことも全く話が出来ていなかった。しかも馴染みのない街なのでどこに何があるのかを全く把握できていない。
「……でも、たまに遊びに行くとか、そういうのもやっていいんだからな」
「あ、そっか」
「てかうちの親がテンション上がってけっこう助けてくれてるし、足りないものはちゃんと買うこと」
「足りないもの……」
「キリちゃんが私服が少なすぎるって怒ってただろ」
「まあ高校生のうちはほとんど制服でいいわけだしね」
「倹約生活が身につきすぎてるな」
話、というより相談や連絡事項が多過ぎてまったく終わらないので、キッチンの窓から差し込む夕日の中で、ふたりはそうめんを茹でて食べた。木暮家に届いた今年のお中元の、息子の取り分のやつである。引っ越しの間は外食やデリバリーで済ませねばならないことも多かったけれど、それをずっと続けていかれる余裕はない。少なくともが学生になってアルバイトで収入を得られるようになるまでは、極力出費を抑える生活をしなければならない。はともかく、木暮は生活水準が下がるはずだ。
「……本当にそれでよかったの、先生は」
「んっ、ちょっと、待った、待った待った!」
最後のそうめんを啜っていたところだった木暮は、慌ててを遮り、むせながら首を振った。
「すっかり忘れてた、その『先生』はもうやめよう」
「うわ、そうだ……」
「どうすればいいかな……」
基本ふたりの結婚は公表しない方針になっている。かといって同じ家に同居していることは事実だし、は少なくともあと半年以上は制服を脱げない。その状態で万が一、ということも考えられなくはないわけなので、呼び名は徹底した方が安全と言える。
「先生も『ちゃん』はちょっと不自然だと思う。呼び捨てでいいよ」
「え、そ、そうか。オレも別に呼び捨てでもいいんだけど……何が自然かな」
「自然な感じ……じゃあ『公ちゃん』にしよっか。キリちゃんたちと同じに」
「そうだな、それがいいか。オレ家族はみんなそれだし」
結論が出たのでふたりで食器を下げて洗い、片付け、ゴミをまとめる。当分の間はどちらも暇がない暮らしになるので、家事などはとにかく負担を公平にすること、という決まりだ。
まだピカピカのキッチンは手入れを必要としないので、ふたりの片付けはものの10分ほどで終わった。夕食の時間帯だが窓からはオレンジ色の夕日が差し込んでいる。不意に木暮――いや公延はその夕日に心を動かされ、に手を差し出した。
「、その、これからよろしく、お願いします」
「……はい。よろしくね、公ちゃん」
握手をしたふたりの手は熱かった。ものすごく照れくさかった。けれど不思議と嬉しかった。自分はこの人と結婚したんだ、という実感が少しだけ体をかすめた気がした。そしてこの先の日々に何が待ち受けているのか、楽しみなような、少し怖いような、その緊張はときめきにも似たドキドキを胸に響かせた。
遠くにセミの鳴き声が聞こえる真夏の、ふたりの「新婚生活」の始まりだった。