「誰って、ほら、同じクラスのヤマトっていう」
「聞いてない」
「え、そうだったっけ……? 話したと思ってた」
公延はやけに厳しい声で、しかしは恐怖よりも苛立ちを覚えた。なにこれ。
「その前に、いま何時だと思ってるんだ」
「何時って、言っておいたでしょ、A駅のマックで受験組だけで」
「それは聞いた。20時半までの集まりのはずだろ」
「20時半より早く出たけど、ヤマトに捕まっちゃったから長くなっただけだよ。駅前で」
ダイニングに荷物をおろし、コートを脱いだは洗面所に入って手を洗い、うがいをし、またダイニングに戻ったのだが、公延は相変わらず腕組み。それも腹が立った。事前に報告はしたし、ヤマトは不可抗力のトラブルだし、説明に困る公延に助けに来てなどと連絡が出来なかったことは分かっているはずなのに。
「確かにもうずっと成績は問題ないし、安全圏をキープできてるけど、受験生のやることか?」
「ちょっと待って、なんで私が悪いみたいになってるの? あいつ勝手に着いてきただけだよ」
「なんで断らなかったんだ」
「断ったけど着いてきたの! 明日は朝イチで担任に報告! ふたりで楽しく帰ってきたわけじゃないんだけど!」
その苛立ちと怒りの正体は「自分だってサクラ先生を持て余してたくせに」である。サクラ先生を撃退したのはであって、結局彼女に関しては公延は何も出来なかったというのに、話の通じない点ではサクラ先生と同じかそれ以上に厄介なヤマトを相手に、どうしろと言うんだ。
無下に扱うと何をされるかわからないと怯えて愛想よく振る舞ったわけでもなく、いい人を演じて何とか穏便に丸く収めようとしたわけでもなく、は一歩も引かずに拒絶を貫いた。公延が数年もの間、サクラ先生やキラリに対して出来なかったことである。自分は出来なかったくせに何言ってんの?
しかしちらりとダイニングの時計を見ると、21時45分だった。駅前での攻防にかなり時間がかかったらしい。
の苛立ちがさらに加速する。もう22時? 嘘でしょ、20時半にマック出てすぐ帰れば21時過ぎには帰れたし、そしたらすぐご飯食べて、22時過ぎにはカフェに到着出来たはずなのに! 公ちゃんはなんか意味不明なことで怒ってるっぽいし、なんなの。幸せなイブになると思ってたのに!
期待していたイブになりそうもないことが頭に来たは、その勢いで言い返した。
「ていうか何? ちょっと前までたまには青春しろとか言ってたくせに、今度は保護者気取り?」
「青春はどうでもいいって自分で言ってただろ。それに夜遊びは青春に入るのか?」
「人によっては入るんじゃない? 私は夜遊びなんかしてないから知らないけど」
「こんな時間まで外をウロウロしてて夜遊びしてないは通らないだろ」
「ウロウロなんかしてないんだけど! 見てもいないのに勝手に決めつけないでよ」
「見てもいないから何も確実じゃないんじゃないか」
「つまり、私が夜遊びしてなかった証拠がないって言いたいの? エマに聞いてみれば?」
「一緒遊んでたら信用できないだろ」
「ちょっと待って、なんでやってもいないことで怒られてんの、私。公ちゃん何が言いたいの?」
もしこれが本当に予備校のあとに街を遊び歩いて、挙げ句にその中の男子と楽しくお喋りしながら帰ってきたのなら、公延の態度は正しかっただろう。けれどがせめて友達と「遊んだ」のはマックでの15分くらいと、駅前での10分程度。どちらも立ち止まったままだった。意味がわからない。
「マックに大人数集まりすぎて迷惑になってたからエマと一緒に店を出て、10人ちょっとと駅まで戻って、受験終わるまでもう会わないかもしれないけど、お互い頑張ろうねって話して、そしたらヤマトが絡んできて、みんな逃げちゃって、エマは最後まで一緒に抵抗してくれたけど、時間が過ぎるばっかりで意味ないから、無視して帰ってきた。ヤマトは少し離れてずっと着いてきたけど、私は振り返って優しい言葉をかけたりなんかしてない。サクラ先生みたいに門のところであれこれ言われたけど、私は一切優しい言葉を言わずに追い返した。それだけのことなんだけど。公ちゃんはそれの何が気に入らないの? 今日私は公ちゃんに怒られるようなことは何ひとつやってないし、もし公ちゃんが気に入らないことがあるのだとしても、それを親みたいな態度で文句言われるのは納得行かないんだけど。オレの金で暮らして受験生やってるくせにって言いたいの? いまさら来栖ダイキと同じこと言うわけ? 公ちゃんて私のなんなの!?」
の言葉を聞きながら公延は俯き気味に顔を逸らしてしまい、余計に表情が見えなくなった。それもの怒りに火をつけた。この間は「大人を振りかざして」とか言ってたくせに、今度はなんなんだ。
「私、公ちゃんにはめちゃくちゃ感謝してるし、みんなの期待に応えたいから、この生活も勉強も目一杯頑張ってるけど、一番近くにいるはずの公ちゃんが一番わかんないよ。公ちゃんがどうしたいのか、どう思ってるのか、ほんとにわかんない。でもそれって、公ちゃんが私に見せてくれないからだよね?」
しかしが何を言おうと顔を背けてしまった公延は無反応。怒り心頭に発していただったが、今度は急激に冷めてきた。何日も前から楽しみにしていたクリスマスイブだったのに、いつものカフェのドライブスルーだけでもあんなに楽しみだったのに、一緒に暮らしている夫が意味不明過ぎる。
なのではパントリーとして使っている小部屋に入ると、いつでも渡せるようにと隠しておいたクリスマスプレゼントを取り、まだ腕組みで顔を背けている公延に叩きつけるようにして押し付けた。
「え」
「クリスマスプレゼント! メリークリスマス! 中身はマフラー! 公ちゃんの毛玉だらけだから!」
すると途端に公延は顔を戻して慌てた。
「いや、あの、オレ、プレゼントなんて」
「別に気にしないで! 公ちゃんにとってはどうでもいいことなんでしょ、クリスマスなんか」
「そういうわけじゃ……」
「ないの? じゃ受験生がクリスマスなんてふざけるな、ってことね」
「いやそうじゃなくて、プレゼント用意してるなんて思ってなかったから」
「別にいいんじゃないの。エマにも渡したし、私が勝手にやったことだから」
だが同居人としても家族としても夫としても、状況はよろしくない。公延はをなじっていたことを忘れたかのように今度は眉を下げて肩を落とした。
「そういうわけには、いかないだろ。なにか、欲しいものとか、ないのか」
「ないよそんなもの。いらない。普段から私にたくさんお金使ってるんだから」
「それはそういう意味では」
「こんなわけのわからない言いがかりつけられて、プレゼント返されてイーブンでも困る」
今の公延は、に喜んでもらいたくて贈り物をする、という気持ちではないことは明白だ。自分だけもらってしまうのはまずいから、なんとかして返礼をしなければと焦っているだけ。そんなもの貰っても嬉しくない。
だが、腹立ち紛れにしてはクリアな思考だったは、妙案を思いついた。
「いや、だったらイーブンになるくらいのこと、してもらおうかな」
「わ、わかった、何が欲し――」
「キスして」
案の定、公延は固まってしまった。きっと全身が冷たくなっていることだろう。
「私、18歳。今日、クリスマスイブ。好きな人にプレゼント渡して、一緒にカフェ行って、いい雰囲気になってチューとかしたーい! っていう、ものすっごいよくある、誰でも考えそうな、高校3年生の夢見るクリスマスだよ。公ちゃんが望んでたような青春で、脳内お花畑の子供っぽい乙女思考。だから叶えて」
は元義父から解放されて以来、自分を偽ったことがない。公延が結婚という未来への挑戦権を与えてくれたから、自分の可能性を思えばこそ、誰かを模倣することなく、自分のために嘘はつかない日々を送ってきた。公延が考えるような遠慮や自虐からは目を背けてきた。だからこれも本音だった。
「私はファーストキスだけど、公ちゃんは違うでしょ? 大人だし、元カノもいるし、チューくらい大したことないんじゃない? 特別なことなんかなくて、好きじゃない人でも出来るくらい、簡単なことなんじゃないの? だったらよくない? 私にはどんな高価なプレゼントよりも嬉しいものだけど」
両手でプレゼントを掴んだまま呆然としている公延を、可哀想と感じる気持ちはあった。きっとキリエほど強い思いはなかっただろうに、勢いで女子高生と結婚してしまい、以来ずっと戸惑う毎日だっただろうことは、にもわかる。けれど、いつまでもそれを引きずっていては、戸惑うことはなくならない。
は仮にも婚姻関係にある相手に対して好意を表明しているだけだし、それを拒絶するのは公延の自由でもある。結婚しているのに第三者と肉体関係を持つことがルール違反となることは慣例だが、かといって夫婦間に必ずしも恋愛感情や肉体関係がなければならないわけではない。証明もしようがない。
公延がの夫よりも別の自分を選ぶと言うなら、それは仕方ない。もそこまで公延の心を強制出来るとは思っていなかったし、そんな元義父みたいなことをするつもりもなかった。
「別に悩むことないんじゃない? 無理なら無理って言ってよ」
「無理とか、そういう」
「ねえ、だからそれ、優しさじゃないよね。私が傷付くから断れないの?」
「……先回り、するなよ」
「つまんない駆け引きしてきたのは公ちゃんの方だよ」
強く握り締めてしまって箱が潰れそうになったので、公延はプレゼントをダイニングテーブルの上に置き、そのまま手をついてため息をついた。またそれがの癇に障ったけれど、腹に力を入れて堪える。
「そういう意味で、オレのことが、好きなの?」
「そう」
「こんな、年離れてるのに」
「結婚しておいて今更」
「それは、受験と」
「公ちゃんはそうだったかもしれないけど、私は違うよ」
「いつから、そこまで」
「だから最初から。てかダメなら早くそう言っ――」
「ダメじゃないから困ってるんじゃないか!」
公延にしては強い言葉だった。本音だったんだろう。だがはその言葉に胸が高鳴る。ダメじゃないの?
「ダメじゃない、出来るよ、初めてじゃないし元カノいるし、潔癖症でもないし、1回のキスくらい大したことないよ。だけど問題は相手がお前だってことだろ。そりゃ結婚したけど、妻だけど、成人してるけど、でもまだ高校生じゃないか。高校生同士なら誰も文句言わないけど、そうじゃなければ、それは」
お前、なんて初めて言われたな。はどこか冷静な頭の片隅でそんなことを考えつつ、つまりこれは公延の隠しきれない本音なのではと思った。キスでもなんでもやろうと思えば出来るけど、女子高生相手にそんなこと許されない、でもダメじゃないから困ってる――いや、だからそれ、出来るってことじゃん。
これはもう一押しすればあるいは――と思っていただったが、次の瞬間、両腕を掴まれて壁に押し付けられた。それでもは動揺しなかった。公延が限界まで追い詰められているのがわかったから。
「公ちゃん、私、クリスマスプレゼントでしてほしいの。イブにロマンチックなやつ」
「……そんなこと、したことない」
「乱暴にしないで優しくしてくれればいいだけなんだけど」
まあも公延がわざとらしくキラキラロマンチックなキスを演出してくれるとは思ってない。そういうセンスは持っていない人だ。かといって、ほらこれでいいんだろ、と頭突きのようなキスを貰いたくはない。これがファーストキスというのは嘘じゃない。
は強張る公延の腕を撫で、背中に手を回して引き寄せる。実のところは予備校帰りでジーンズにフーディーだったし、公延は普段から家着にしているスウェットにTシャツにカーディガンで、ロマンチックどころか生活感があふれまくっている。
「……どうなっても、知らないからな」
「離婚以外なら、どうなっても、平気」
公延の指が髪を払い、が目を閉じると、願った通りに優しく唇が触れた。強すぎず、弱すぎず。
冷たい12月のダイニングは静寂に包まれていて、聞こえるものと言ったら冷蔵庫の微かな駆動音、エアコンから吹き出す温風の音、壁掛け時計の僅かな秒針の音。そして生活感あふれるダイニングと普段着。
けれどその中で、は瞼の裏に眩いばかりのイルミネーションを、きらめくミラーボールを、弾ける大輪の花火を見た。そして全身を押し流してしまいそうなほどの強い強い鼓動。意識が薄れ、手の感覚が遠ざかり、唇の感覚だけが異様にくっきりしていく。
「……?」
「公ちゃん、好き」
唇が離れてもぼんやりしているの頬を撫でた公延だったが、また強く抱きつかれてたたらを踏んだ。しかも耳元でそう囁かれて、息を呑む。
「プレゼントありがとう、一番欲しいものだったから、他に欲しいものなんかないから」
もう公延は何も言わず、しっかりとを抱き締め、そっと頭を撫でた。
翌日、心なしか顔がツヤツヤしているは満面の笑みでエマの前に現れた。昨夜のことを心配しての予備校の近くまで来てくれたので、一緒に昼である。
「まじか……あのバカの件で心配してたのに超展開だな」
「うふぇふぇ」
「笑い方気持ち悪いんだけど」
「これは〜公ちゃん押せば倒れる気がする〜」
「……ん? 昨日倒れたんじゃないの?」
「だから倒れてチュー」
「……その先は?」
「え、それはない」
「なにやってんだよイブだぞイブ! 唐揚げ食うかセックスするかの日だろ!」
「そこまで突破できるか! チューまで4ヶ月かかってんのに!」
昨夜はキスまでこぎつけただったが、その後の公延は完全に普段通り。キスしてもらいたくて煽りまくったのが効いたと思っていたけれど、の予想以上に彼にとってのキスは大したことではなかったのかもしれない。今朝は普通に仕事だったので、より先に起きて早く家を出ていった。
「でも朝用のおにぎりが置いてあって、ちゃんと食べていきなよってメモが」
「そういうのよくあるの?」
「いや、あんまり。てか結局昨日の態度もよくわかんないんだよね。いきなりキレたみたいな感じで」
それについては蒸し返したくないので追求するつもりがないだったが、エマはニヤニヤ。
「は変なところでお子ちゃまだからな〜」
「なにが」
「いやマジで気付かないの」
「だからなにがよ」
「公ちゃん、嫉妬したんでしょ、ヤマトに」
「…………え?」
公延に恋をしているのは自分の方であり、今はガードの固い夫をいかに切り崩すかということしか考えていなかったので、は面食らって肩をすくめた。しかもヤマトなんか嫉妬するほどの相手じゃない。
「お前さん状況の分析能力をもう少し鍛えた方がいいんじゃないの。公ちゃん、家まで追いかけてきたヤマトを見たんでしょ? いかにも若者で、幼くて、の同じクラスの男子っていう感じが丸出し。それがイブの夜に妻と一緒に帰ってきて、嫉妬しちゃって、あることないことなじって、そんで言ったんでしょ、高校生同士なら誰も文句言わない、って。つまり、あいつならこんな時、何も考えずににキスしても許されるのにオレは、夫なのにオレは、って思ったんでしょ。だから結局キスしちゃったんでしょ――っておい、その顔」
ツヤツヤ顔のの目がキラキラ光っている。
「そうなのかな、まじで公ちゃん嫉妬してくれたのかな、それって、それってもしかするよね」
「状況的にはね。まあ今が攻め時という気はするよね。年末年始でイレギュラーな季節だし」
「昨日出来なかったから今日はクリスマスっぽいご飯にしようかと思ってたんだけど」
「てか公ちゃんも昨日の夜はみたいなデートを考えてたんじゃない?」
「だから余計に怒ったのかな」
「時間があるなら今日も誘ってみたら?」
「そうするそうする」
「私の予測だと公ちゃんたぶんプレゼント買ってくると思うし」
「なにそれ死んじゃう」
「もし私の読みが正しければ身につけるものを買ってくると思う。外から見えるもの」
「アクセとか?」
「まあそれもだし、マフラーとかそういうのも範囲内」
「なんで?」
「自分のものである印を付けたいから」
「ひゃあああああ」
そんな会話で大興奮のが帰宅し、なんとなくクリスマスっぽい食事を用意して待っていたところ、公延はエマの予想通りプレゼントを携えて帰ってきた。昨夜の刺々しい態度のことなど綺麗さっぱり忘れたような普段の公延で、しかしどことなく機嫌が良さそうにも見える。やっぱりもしかするのか。
そしてプレゼントもエマの予想通り、ニット帽だった。「のも毛玉だらけだったから」と言っていたけれど、が公延に贈ったマフラーによく似た色合いの、ほとんどお揃い。
なのではイブのやり直しとばかりに、いつものドライブデートに誘った。もちろん公延は断らなかったし、いつもなら1時間で帰宅するドライブも、この日は1時間半だった。
の祖父母への土産は何がいいだろうか、そんな会話にはまたきらめく光の幻を見た。