明けても暮れても

8

受験がある以上は先送りせず、早めに相談をして赤木兄妹を招待――が実現することはなかった。9月の半ば頃、が風邪を引いてしまったからだ。ちょっと喉に違和感がある、と言い出したのが朝。昼頃には咳が出始め、保健室で帰宅するよう指導されて自宅に戻った時には熱が出ていた。

公延に心配をかけまいとしたのか、は「ちょっと風邪を引いたっぽいので、食事とかは部屋で取るね。塾と予備校は休みます」とメッセージを送ったのだが、依然そこはかとない緊張の毎日である公延は急いで仕事を切り上げて帰ってきた。

帰宅する旨は連絡してあるが、自室に行こうとしての部屋の前に立つと、中からゲホゲホと激しい咳が聞こえてきた。途端に保護者意識でいっぱいになってしまった公延は慌ててドアをノックした。「ちょっと風邪引いたっぽい」レベルの症状じゃないじゃないか!

「ただいま、大丈夫か!?」
「おかえりなさ〜い、だいじょうぶ〜」
「医者は?」
「行ってない」
「薬は?」
「買ってきた〜」
「てか開けていいか」
「え、だめ! 伝染る!」

だが、まだ18歳がひとり風邪を引いていて、同居している27歳が何も手助けしてやらないのはどうなんだろうと公延は悩んだ。夫婦としては助け合うべきだし、病の床にある人への気遣いに立場は関係ないのだろうが、がどの程度公延を他人と認識しているかにもよる。風邪でヨロヨロの姿は見られたくないかもしれない。

しかし相変わらず激しい咳が聞こえてくる。公延は自分の部屋からマスクを取ってくると、装着しながらまたノックをした。を10代女子と思って遠慮したい気持ちはあるが、体調不良時は例外と腹を決めた。

「マスクしたから大丈夫だよ、中には入らないし、ドア開けるだけ。ダメか?」
「待って、窓開けるから待って――いいよ」

そっとドアを開けた公延は、引っ越しの時に見て以来のの部屋の家具の配置を思い出しつつ、じろじろ見ないように気を付けてベッドの方を見てみた。いない。窓を開けるとか言ってたなと思い直してそっちを見てみる。いた。カーテンに掴まって咳き込んでいる。

「咳ひどいな。病院行ったほうがいいんじゃないか」
「私いつもこんな感じの風邪なんだけど、病院の薬効かなくて。でも治るの早いから」

振り返ったもマスクを掛けていて、開け放った窓からはエアコンの冷気がどんどん逃げていく。開いたドアの隙間から顔を突っ込んでみた公延だったが、部屋はまったく散らかっていなかったし、ベッドに座り直したはパジャマというよりはゆるい部屋着という状態なので、ドアを押し開けて足を踏み入れてみた。

「このところずっと忙しかったし、ストレス貯まることも多かったからな」
「え。ストレスで風邪引くの?」
「ストレスは免疫力を下げるから。夏の疲れもあるだろうし。あとでまたちゃんと涼しくしなよ」

嫌がる素振りを見せないので、公延は慎重に距離を取っての隣に腰掛けた。顔色はそれほど悪くない。

「熱は?」
「そんなに高くない。37.5℃」
「軽く熱と、咳と」
「あと喉が痛くて、頭もちょっと痛いかな。他は大丈夫そう。お腹も壊れてない」
「食欲は?」
「食べたくないってほどでもないけど、お腹ペコペコって感じもしない」
「う〜ん、そう言われると確かに軽い風邪って感じがしちゃうな……

しかしそれを甘く見て悪化させ、長引かせることもあるまい。公延はスマホを取り出してメモを取り始める。は遠慮するだろうが、自分も同居人の体調不良には慣れておいた方がいいと考えた。

「難しいところだけど、ある程度咳が治まるまでは休んだ方がいいかな」
「はい。あとで担任に連絡しとく」
「薬は……これか、いつも飲んでたやつ?」
「そう。お母さんが漢方好きで、子供の頃からずっとこのシリーズ」
「今までは効いてた?」
「効いてた。症状見ながら順番に飲んでいくと治る」
「じゃそれは任せる。あとは、今スポドリ買ってくるから、こまめに飲むこと」
「はい。スポドリもいいけどキレートレモンお願いします」
「いいねビタミン。あと食べられそうなものは?」
「う〜ん……消化がいいものの方がいいよね。優しいやつ」
「それはそうだろうな。でも腹に来てないなら、おいしく感じられるものでもいいんじゃないかな」
「じゃアイス」
「それはちゃんと食事をしてから」
「え〜。じゃあ冷やし中華。熱あって暑いから冷たいのがいい」

聞き取りをしつつ、公延はメモを取っていく。新生活に慣れようと頑張ってはいたけれど、こういう時の備えは忘れていたな、とちょっと反省する気持ちもあった。公延が気にしていたのは、この家の住人が「高校教師と女子高生の夫婦」だと近所の住民に知られないようにということばかり。災害時の備えや取り決めも相談したことすらなかった。お互いほとんどの時間は学校にいるとは言え、必要なことのはずだ。

「じゃあちょっと買い物行ってくるけど、可能なら眠ること」
「あんまり眠くないんだけど」
「風邪って、体内でウィルスと戦ってるから寝てても体力は消耗してるんだよ。だから食べて寝るのが大事」
「そっか。でも私ほんとに風邪すぐ治るタイプだから、気を使わなくていいからね」

まだまだわがまま放題でいられる時期なのに、なにをこの子は遠慮してるんだ。そう思ったら公延はちょっと切なくなってしまった。きっと母親を亡くして以来、この子の体調不良を案じる人間はほとんどいなかったんだろうな。体がしんどい時くらい、優しくされていいはずなのに。

それがつい手に出てしまい、公延はの頭を撫でた。

「具合が悪い時はそういうの考えなくていいから。しっかり休んでちゃんと治さないと」
……でも、公ちゃんも忙しいし、私、頼ってばっかりだから」

なぜ18歳の子がそんな台詞を。マスクの中にそっとため息をついた公延は、わざと笑顔を作ってみせる。

「大丈夫。風邪ひとつ協力して乗り越えられなかったら、この先大変だぞ」
「それはそうだけど……
「夜中になんかあっても、ちゃんと起こすこと。いいね」
「えええ〜」
「いいんだよ。オレが風邪引いたら今度は助けてもらうから。……そういうものだろ、家族って」

自分で言ったその言葉に公延はそこはかとない緊張の糸が少し緩むのを感じていた。そうだった、自分たちが高校教師と女子高生だとか夫婦だとか、そんなことよりも、今には「家族」が必要なのだということを忘れていた。18歳と27歳だからではなく、同じ家に暮らす家族としてを支えてやること、それが今自分に求められている最も重要な役割だったのではないのか。

体がしんどい時に、家が安らげる場所でなくてどうする。同居人がさらにしんどくさせてどうする。

帰宅してと話すまでは自分の母親かキリエにヘルプを要請しようかと考えていた公延だったが、全て自分でやることにして家を出た。必要なものを買い、戻ったらそれで彼女のために食事を作り、彼女の担当分の家事をやる。なんで自分がこんなことを、とは思わなかった。

なんでオレがこんなことしなきゃいけないんだよ、他人の助けになんかなりたくない、オレの方が大変なんだからオレを助けろよ! そう思った瞬間、自分は来栖ダイキになる。それはあの夜に感じたのと同じ恐怖を伴ったイメージだった。オレの金を返せと喚くダイキ、あれは人ではなかった。モンスターだった。

との生活においてまず持っておきたい心構えを見出した公延だったのだが、疲れているのは彼も同じだったし、妻への接し方への糸口を掴んだと思って頑張りすぎたのか、あるいは同じ家の中での予防に限界があったのか、今度は公延が風邪を引いた。

「ちゃんとやったつもりだったのに……
「だからやりすぎだよって言ったのに」
「こんなしっかり風邪引いたの久しぶりでつらい」
「さっきお義母さん来たけど差し入れだけ置いて帰っちゃった」
「聞こえた。そーいう人なんだよあの人は」

というか公延の母は息子とその妻を焚き付けて孫を授かりたいということしか考えていない。なので不定期で差し入れを届けに来たけれど、息子が珍しく風邪を引いてくたばっていると聞かされるや、じゃあ後はよろしくねとなんだか楽しそうに帰っていった。魂胆はわかってんだよと息子は思うが、今はどうでもいい。

久しぶりの風邪のせいで仕事まで休む羽目になってしまい、それも気が重かった。1日や2日くらい休んだって大丈夫、という余裕は社会人5年目でもあまりない。そもそも今は超展開の結婚と受験生を抱えた生活で、時間にも気持ちにも余暇がない。それらは予めスケジュールを見ながら作り出さねばならないものだった。

だけでなく、の看病をしつつひとりで「ふたり暮らし」の家事をやっている間に、公延は備えが不足していることや、円滑に日々を送るための用意というものがまだまだ終わっていないと感じていたので、の体調が戻ったらそれをやりたいと思っていた。のに、今度は自分が倒れた。

「まあそうだよね、今のところ買い出しの度に何日かの間に必要なものを買ってるだけで」
……ひとり暮らしの時より、必要なものが多いなと、思ったんだよな」
「うん、わかる。自分だけだったら必要ないものって、あるよね」
「あとは災害時の取り決めとか、連絡方法とか、そう、自転車買おうかと思って」
「公ちゃん、それ治ってからね」
「はい……

同様公延も咳、喉の痛み、熱、頭痛が出ていた。食欲はあるようでない。なのでにあまり噛まなくていいものをリクエストしたところだ。というかはそのための買い出しのために徒歩でスーパーに行かねばならない。自転車は生活必需品だったと今頃歯軋りをしても遅い。

「ちょっと距離あるけど、シェアチャリで行ってくるよ」
「ステーションすら遠いだろ、大丈夫だよ、明日くらいになったら自分で行くから」
「協力して乗り越えなきゃって言ってたの誰よ」
「オレはいいんだって。受験生なんだから、あんまり風邪っぴきの近くにいるんじゃない」
「公ちゃん、まだ9月」

熱でぼんやりしている公延は、額にの手が触れたので思わずぎゅっと目を瞑った。今は非常事態なんだから、これはスキンシップには入らないはずだ。それにが自主的に触れてきたんだから、問題はないはずだ。これは看病の一環。協力し合う家族には当たり前のこと。

「計った時は微熱だったけど、けっこう熱いね?」
「眉間のあたりが熱くて気持ち悪い」
「だよねえ。凍らせるアイマスクあった方がいいかな。氷枕とどっちがいいだろ」

スマホに指を滑らせつつそんなことをブツブツ言っているもマスク姿で、買い物に行くためTシャツに着替えていた。眠れるようにとカーテンを引いている公延の部屋の中に、彼女の白々とした腕がぼんやりと光っているように見える。寝床でメガネを外している公延はその腕が冷たそうに見えて、何も考えずに指先で触れた。

「あ、ごめんごめん、じゃあ私行ってくるね。スポドリ飲んで、ちゃんと寝ててね」
……あ、その、ごめん」
「大丈夫、スーパー行ってご飯作るのは慣れてるから」

そう言って部屋を出ていくの後ろ姿を見送った公延は、ひとりで暮らしていた頃には感じたことのない寂しさを覚えて、心細くなった。なんだよこれ、オレだって18で家を出てから基本ひとりで生活してきたし、その間には風邪を引いたこともあったけど、こんな心細さを感じたことなんかなかったぞ。

けれど、ほんの1ヶ月程度の同居生活だというのに、この家にはがいて当たり前と感じるようになりつつあり、風邪で気力が落ち込んでいるせいか、ひとりになることが不安に思えた。普段同じ家にいても過ごす部屋は別だし、夕食だって週の半分くらいは別々に取っているというのに。

の足音が遠ざかり、玄関ドアの閉まる音が聞こえると、家の中はしんと静まり返った。エアコンからそよそよと風が吹き出てくるかすかな音だけの部屋に、公延は長く息を吐いた。に安心して受験生になってもらうための結婚だったはずなのに、なんでオレが安心させられてんだよ。別にひとりでも平気だっただろ。

もちろんひとりが寂しくていつでも人恋しかったわけではない。実家は問題ないし、仕事は充実していたし、友人関係も程よく楽しかったし、車を購入する余裕もあった。けれど驚くほど急速に「実家から独立してひとり暮らし」という自分が薄れていってしまった。

そう、これまでは何か不測の事態があれば、実家に帰ればよかった。風邪くらいではともかく、例えば歩けないほどの怪我をしたら、何も考えずに親を頼ったはずだ。親に任せておけば心配もないし、気も使わなくていいし。けれど今は、最初に相談して頼るべき相手は妻であるなのだという意識が芽生え始めていた。

それが赤木兄妹に言ったように、4年後には解消している関係なのだとしても、同じ家で生活をともにしている以上は、そうやって協力関係にあることが務めのような気がした。

積極的にを妻と思い好意を抱けるようになりたいのではなく、彼女をパートナーとして信頼することが、この奇妙な関係と暮らしを円滑に進めるのではないか。いつか関係解消する時が来ても、きっと後悔が残らないのではないだろうか。

そんなことを考えながら眠ってしまった公延が軽やかな通知音に目を覚ますと、部屋は真っ暗になっていた。眩しい目を細めて確認すると、時間は19時半を過ぎている。の可愛いスタンプとともに、「ご飯食べられる?」というメッセージ。瞬間、胸の奥がじわりと疼いた。

マスクを掛けて階下に降りると、こちらもマスクを掛けているが笑顔で迎えてくれた。

「わ、顔の赤いの取れたね。熱計った?」
「いや、まだ。すっかり寝ちゃってて……
「はい、体温計どーぞ。てかほんとに寝起きだね。スポドリ一気いってみよう」

ダイニングチェアに腰掛けた公延は差し出されるままに体温計を脇に挟み、スポドリを流し込む。見ればテーブルの上にはとろろご飯と焼鮭と茶碗蒸しが並んでいた。確かにどれも固くない。急に腹が減ってくる。

正直あまり自覚したくない感情だったのだが、あの召使い生活のせいでの料理はなんでもめっぽう美味く、それは高梨夫婦が「受験終わったらバイト代出すから常備菜作って」と手を合わせてくるほどで、公延はそれがたまらなく嬉しかった。

パートナーに家事をやってもらいたい、あるいは家事は女がやるべきだという考えは持っていなかった公延だが、それでもこの「妻」が美味しいご飯を作ってくれる嬉しさは否定できなかった。もしが卵も割れないような人であっても何も思うところはなかっただろうが、今は彼女を自慢に思った。

「お、37.2℃! 微熱だね。シャワー入るともう少し下がるかも」
「後は咳が取れればな。てかこれ食べていい?」
「あ、ごめん、どうぞ〜。温かいもの嫌かと思って茶碗蒸しも冷たいんだけど、味噌汁とかほしい?」
「ほしい。腹減ってきた」
「まじで。いいね、食べて寝れば治るよ」

マスクをしていてもが笑顔であるのがわかる。彼女を助けるのも妙な嬉しさがあったけれど、助けてもらってもやはり嬉しい。は豆腐の味噌汁に卵焼きも作ってくれた。前の家の近くにあったアットホームな雰囲気の定食屋を思い出す。笑顔で優しい夫婦の営む店はいつでも美味しい食事ができた。それは涙を誘うほどの激しい感情を呼ぶものではなかったけれど、飽きることがなかった。

との暮らしはそうであってほしい。いつか終わるその日まで。

「あ、そうだ公ちゃん、私来月で塾終わるから、赤木さんたち呼ぶなら来月までがいいかも」
「そっか、そうだよな」
「あと前に言ってた私の友達のエマ、呼んでいい?」
「もちろん。もう全部話してある子なんだろ?」

受験生のスタートが遅かったせいもあって、はしばし公延の高校の校長の紹介で個人塾にも通っていたのだが、11月からは予備校一本になる。の学力と公延の経済状況を鑑み、基礎の確認とおさらいが終わったところで塾を終えることにしたからだ。

とはいえ予備校一本になったから時間が空くというわけではないので、授業時間の短い塾がある間の方が週末の都合をつけやすかった。公延の母や高梨夫婦は好きな時に押しかけてくるが、招待客はそうもいかない。特にエマは唐揚げたくさん作って! と目をキラキラさせていたので、その準備も必要。

なので翌日、公延の熱が下がり、咳と頭痛が残って休んでいる間にふたりは会議を開いた。そしてはサヨ遺産から自転車を買い、公延がいなくても好きに買い出しに行かれるように、個人のものとは別に「家計の財布」を作った。それはもちろん公延の収入から用意されたものだが、生活に関わることに使うのであれば、は公延に許可を取らずに使えることとした。

そして公延が風邪からすっかり回復した9月末の週末、土日を使って赤木兄妹とエマを招待した。

はスクールカウンセラーだという晴子の支援の申し出にいたく感激をし、きちんと大人として扱ってくれる赤木兄にも感心し、ふたりがやたらと料理を褒めてくれるので真っ赤になっていた。

その翌日にやってきたエマは大量の唐揚げに大喜びし、ちょっと緊張していた公延がやがて「勉強わからないところあったらメールしていいよ」と言い出してしまうくらいには馴染んで帰っていった。

赤木兄妹とエマ、どちらも揃って「いい家だね」と言っていた。

それは価格と外見の割にピカピカにリフォームされている住宅のことだったのか、それともと公延が手探りしながら積み重ねている毎日の「家庭」という意味であったのか、それはわからない。

けれどふたりは、自分たちは道を間違えていないというささやかな達成感を感じていた。

大きな声で言えない関係とその暮らしではあるが、その中では一番いいやり方で頑張っている。ふたりが抱える事情の中では最良の選択をしている。それをこのまま続けていっていいのかもしれない。それを守っている限り、この暮らしは破綻しないに違いない。

赤木兄妹とエマが帰った後の片付けを一緒にやりながら、ふたりは同じことを思っていた。こんな奇妙な「結婚」だったけれど、それでもそんな生活をともにする相手がこの人でよかった。この人でなければ、きっともっと苦しかったに違いない。早く逃れたいと思ったに違いない。