明けても暮れても

19

厳しすぎる寒さの2月だった。その傾向は1月からあったけれど、それでもこの年の2月は低気温に次ぐ低気温で、神奈川の沿岸部でも連日最低気温がマイナスになってしまう日々が続いていた。そのため財政的には余裕がないというのに公延はこたつを購入。あまりに寒いので食事も勉強も仕事もこたつという日が続いた。

は緊張を持て余してはいたけれど、かといってそれを悲観し荒れることなく過ごしていたので、自身のことでは緊張の少ない公延の方がハラハラし始めてしまい、しばし木暮家は寒さだけではないピンと張り詰めた空気が続いていた。

親のサポートを一切受けることなく、絶対に失敗できない受験に挑む――という状況に、さしもの公延の母も来訪を控えていた。なのでそのサポートは全て公延がやり、彼は彼で、もしこれで不合格だったら高校教師を続ける資格がないのではと思い始めていた。

そして2月の半ば、帰宅してきた公延は真っ白な息を吐きながら自宅のドアを開けた。

「公ちゃん!!!」

玄関に入るなりに抱きつかれた公延は、そのまま受け止めて抱きかかえた。の足がふらりと浮く。

「うか、受かってた、合格した、番号あった」
「ほんとか、間違いないか」
「ない、大丈夫だった、受かってた、受かってたよ……!」

合否は書面にて送付されてくるのだが、午前10時から大学構内において発表があるというので、は通知の到着を待たずに掲示を確認しに行った。結果は無事合格。

「ごめん、お金の件があるから先におばあちゃんに連絡しちゃった」
「そんなの気にするな、当たり前だろ、いいんだよ、オレは、これで」
「なに言ってんの、全部全部公ちゃんのおかげだよ、公ちゃんがいたからだよ」

足をついたは言いながら公延のつめたく冷えた手を握り締める。

「私には就職してひとりぼっちで暮らすっていう未来しかなかったのに、学生になれるんだよ。お母さんが死んだ時に全部失ってしまったものは、公ちゃんが全部くれたの。家族、助け合ってくれる人、そばにいてくれる人、進学、もう少し、自分を試したいっていう、夢まで。それは公ちゃんがくれたものなの」

が見上げた公延の眼鏡の向こうの目は珍しく潤み、少し赤くなっていた。

「本当にありがとう。感謝してもしきれない」
「そんなの、いいって、オレは、ただ、進学したいって、その気持ちを、潰したくなかったから」
「だけど、誰にも出来なかったことだよ。公ちゃんだけが私を助けられる唯一の人だったんだから」
「そんなことない、頑張ったのはだろ、ただオレは、たまたまそこにいただけの」
「なんでそんな謙遜するの、みんな公ちゃんに感謝してるよ。おじいちゃん超泣いてた」

おばあちゃんは歓声を上げ、おじいちゃんは感極まり、幼いいとこたちはそれを見て騒いでいて、電話の向こうはなかなかのカオスだった。なのではちょっと笑って、公延も洟を啜りながら笑った。が母を亡くして以来、一番の良いニュースだったに違いない。

ふたりは笑った。見つめ合いながら、手を取り合いながら、笑った。嬉しくて仕方なかった。

、お祝い、しようか」
「え、おじいちゃんたち来た時にって言ってなかった?」
「じゃ、前祝い。ふたりで。ふたりで頑張ったから」
「あの〜そのつもりで実はご飯の準備しちゃってて」

の視線を追って公延がダイニングテーブルを見ると、ホイルに包まれた肉の塊らしき物体。

……だから、いつもみたいに、カフェがいいな。ふたりで、ドライブ」
「ああ、そうしよう。何時間でもいいよ、好きなところ、連れて行ってあげる」
「公ちゃん明日仕事じゃん」
「そのくらい大丈夫だって。ていうか興奮して寝られないからクールダウンしないと」

言いながらまた笑った。どれだけ暖房を効かせても2月の木暮家は寒く冷たく、隙間風に型板ガラスの窓は揺れていたけれど、ふたりはずっと笑っていた。そしてお手製ローストビーフの夕食を取り、いつものように実用重視の軽自動車に乗り、ドライブスルーでコーヒーを買い、それを片手にドライブを楽しんだ。

他には何もいらなかった。そうやってフロントガラス越しに街を眺めながら話し、コーヒーを傾け、笑い、考えて、また笑う。それだけで幸せだった。

合格発表の数日後にはの祖父母がやって来て、無事に初回の学費の振込が完了。その日はマヤも呼んで身内だけの簡単な席を設け、改めて成人祝の相談などしつつ、祖父母とマヤが公延に土下座で礼を言うので本人が狼狽えまくり、はそれを見て笑っていた。

追ってエマも第一志望に合格したと連絡が届き、公延は唐揚げパーティを約束してしまった。

あるいは高梨夫婦も合格祝いでパソコンを買ってやると言い出し、そこまでしなくていい、いやさせろ、高価過ぎる、今まで何も出来なかったんだからやらせろ、という攻防がしばし続いた。

2月の濃く青い空に気温はまったく上がらず、相変わらず最低気温はマイナスだったけれど、日が延び、日没は確実に遅くなっていく。の場合新生活の準備はそれほど多くなかったが、入学手続きが終わって以降は外出することが多くなっていた。そのほとんどがエマと出かけるということだったので、これでやっとも年相応の楽しみが持てると安心した公延は、特に何も口出しはしなかった。

そんな2月も末のことだった。

このところは明るいうちに外出をして、夕方までには帰宅、食事を作って夫を待っているという、専業主婦のような日々を過ごしていた。公延は帰宅すると温かい食事が用意されているし、すぐに風呂に入れるし、この「結婚」の一番高いハードルだった受験が終わったので、緩みまくっていた。

なので、風呂上がりのピンク色の頬のままリビングで休憩していたところに、隣に座ったから赤い包装紙の箱を差し出され、公延はひょいと首を傾げた。オレ、誕生日は夏だよ?

「これは、遅くなったけど、バレンタイン、です」
「バレ……え、あ、そうか……
「とっくに過ぎちゃったけど、無事に合格できたらやろうと思ってて」
「そんな、気にすることなかったのに、悪かったな」

公延は珍しく照れていた。というのも、就職以来バレンタインの思い出といえば、サクラ先生とキラリから贈り物やチョコを貰わないように警戒したくらいで、学生時代の元カノに貰ったチョコは正直覚えていない。なんかチョコを食べたような気がするという程度。なのでつい嬉しくなってしまった。

「えと、開けていい?」
「そんなにいいものじゃないけど、よかったら」
「いやその、嬉しいよ、ありが――

言いながら包みを解いた公延は思わず言葉を切った。手作りのチョコと焼き菓子だったからだ。

「お菓子はあんまり経験がなくて、チョコって難しいと思ったし、エマん家で練習しまくった。だから最近出かけてたのはほとんどエマの家で、しかも試作品は全部エマとエマのパパが食べちゃったけどね」

というわけで現在エマのおでこはブツブツらしい。笑うだったが、公延はまだ箱の中を見つめていた。

思い返せば、中学でバスケットに出会って以来、公延の暮らしのほとんどは部活だった。それが何より楽しかったし、同級生たちが祝日にテーマパークに出かけたと自慢していても、羨ましくならなかった。浅い付き合いの友達とテーマパークで遊ぶより、部活に出ていた方が楽しかったからだ。

バスケットといえばそれだけでちょっとかっこいい競技だったし、サッカー部テニス部と並んで女子モテに困らない運動部だったわけだが、中学の時の公延は全く恋愛に縁がなかった。もしかしたら公延に思いを寄せている誰かはいたかもしれないが、それを本人が知ることはなかった。

高校でも状況は変わらず、公延は部活漬けの毎日を過ごしていた。ただ2年生の時に短い期間、初めての彼女が出来たのだが、他校生だったのと、あくまで部活を優先する公延に愛想を尽かして関係を解消してしまった。今になって思えば、公延自身もそれほど好きではなかった。ずっとずっと、バスケットの方が好きだった。

「公ちゃん?」
……手作りなんて、もらったの、初めて」
「えっ、そうなの!?」

で、公延は家庭教師時代から優しそうなメガネ男子だったので、こーいうタイプ好きそうな女子はいっぱいいるから、モテるんだろうなと思っていた。なのに手作りが初めてということに、ちょっとモヤッとしたものを感じないでもなかった。初めてが私でいいけど。全然いいけど!

「ていうか、なんだろ、今までは全部、礼儀みたいな感じで、カップルに必要なイベントだからちゃんと用意した、っていう感じで、なんか、お歳暮とかお中元みたいな感じがしてて、でもこれは……

の心が籠もってる感じがする。言葉に出して言えなかった。

元カノたちが悪い人間だったわけではないし、それらは彼女たちなりの親愛の印だったはずなのだが、公延の記憶の中ではどこか正しくイベントをこなすことにより「カップルという様式を演じている」ように感じていた。彼女らのチョコより、所属するチームが試合に勝つ方が嬉しかった。

けれど今は、純粋に嬉しかった。このところ嬉しいことが続いているが、それでも嬉しい。

「すごく自惚れた言い方だけど……オレのために作ってくれたものって感じが、する」
「それはもちろん。本命チョコです」
「それって片思いの時の話じゃないの?」
……片思いじゃないの、これ」
……あ」

自分が何を言ったのか気付いた公延は手を滑らせ、危うく箱を落としそうになった。だって夫婦だからと笑って言えればよかったのに、咄嗟にその意味に怯んだ。は顔を逸らしてしまった。

恭しく箱をこたつに乗せた公延は、の手を取って正面から向き合った。

「手作りなんて初めてで、いい年して恥ずかしいけど、すごく嬉しい、ありがとう」
「そんなの、ど、どういたしまして……

何やらゴニョゴニョと言いかけただったのだが、頬に公延の手が触れたので、ひょいと顔を上げた。

……そんなに?」
「そんなに。めちゃくちゃ嬉しい」
「そっか、よかっ――

言い終わらないうちに、唇を塞がれてしまった。驚いて固まるに公延は3度キスして、強く抱き締めた。

、ありがとう」

バレンタインに公延が口を滑らせたことはしかし、ふたりに特別な変化は与えなかった。は3月の初旬に音羽東を卒業、休みの間にエマと卒業旅行を計画すればよかった、今からでも間に合わないだろうか、などと言うようになっていた。

何もかも順調、何もかも丸く収まっている。そんな状況に対して「そういう時が怖いんだぞ」と言うのは酒の入ったキリエだけで、と公延を取り巻く人々はの新たな一歩に大いなる期待を寄せ、またそれを祝福し、それぞれがそれぞれのやり方でを支援していこうと考えていた。

ただひとつ予定が立たなかったのは成人祝で、関係者の都合が噛み合わず、かといって成人の日自体はとっくに過ぎているわけなので、まあこうなったら次のゴールデンウィークでもいいか、なんて思い始めていた。それって予定が流れるフラグじゃんとエマは渋い顔をしていたが、どうにもならない。

は新たな環境では木暮を名乗ることに決め、結婚についても特に秘密にしないことを決めていた。この頃のの目標は結婚1周年までに公ちゃんと両想いになる、であり、とにかく本人にそれを認めさせ、夫婦というより彼氏彼女の関係になることを望んでいた。

そんな3月の半ば頃、は桜前線を毎日チェックしては、公延とふたりの夜桜デートを目論んでいた。卒業式は終わったけれど、3月31日までは高校生なので、出来れば4月1日以降に。既に成人、あとは高校生でさえなくなれば、自分たちの結婚はまた一段階段を登れるはずだ。

夕方になり、夕食の準備をしつつそんなイメージでニヤニヤしていたは、ダイニングテーブルの上のスマホが鳴ったので覗き込んだ。マヤからの着信だった。

「はーい、マヤちゃん久しぶり〜」
、ごめん、ごめんね」
「はい? どしたの? 大丈夫?」

電話の向こうのマヤの声は震えており、いきなり謝るのではスマホを耳に押し当てたまま首を傾げた。

マヤの話はまったく要領を得ず、何度も質問と確認を繰り返しながら辛抱強く聞き取ること15分、公延の好物の和惣菜の出汁の匂いに包まれたキッチンで、は吐き気を覚えて呻き声を上げた。

いわく、実父が二度目の離婚をし、それを機にと親子に戻りたいと言っているらしい。

の呻き声にマヤはまた謝罪を繰り返したけれど、それもあまり耳に入っていなかった。実父はマヤからの情報で、が母を亡くし、当時遠縁相当だった人物と結婚したということは知っているはずだ。それなのに親子に戻りたいだって? もう何年も会ってないし話もしていないのに? 吐き気は強くなるばかりだ。

しかも、実父の主張は「自分も幼い子供への責任があったから母親を亡くしたに何もしてやれなかったけれど、もうそんな枷はないから、今度こそ娘を助けたい。も離婚して自由になり、親と暮らし、親の金で悠々と学生生活を送るべきだ」というもの。

……マヤちゃん、私、公ちゃんのこと、本当に好きなの」
「知ってる。わかってる。木暮さんを見てるの顔見てたらわかる。それも言ったの私」
「だから、離婚する気なんか、ないよ」
「それも言った。ちゃんと言ったよ」
「でもマヤちゃんの話は聞かないんだよね。お父さんだけじゃなくて、おじいちゃんとおばあちゃんも」

電話の向こうでマヤの泣き声がワッと響いた。彼女にとってはいついかなる時でも話の通じない両親と兄だった。健康に不安があり、そのため低収入にならざるを得ず、なのにひとりでひっそりと生きているのは、その両親と兄という存在自体がいつでも彼女を苦しめていたからだった。

マヤは兄とサヨの結婚をいたく喜んだらしい。お姉ちゃんと呼ぶことをサヨに断られても、マヤはサヨが好きだったし、その延長でのことも生まれた時から好きだったとよく言っている。だからサヨの再婚に不安を感じ、反対してしまって以来付き合いを絶たれたことは泣くほど悲しかったそうだ。

なので以後、マヤの「身内への親愛の情」は全てに注がれていた。

もマヤを慕っていたし、のんびりしていて気が利かないと人には怒られるそうだが、むしろはマヤのそんな穏やかなところが好きだった。マヤが苦しい生活をしていることは知っていたから、たまにファストフードでお茶をするだけでも充分だった。にとっては残り少ない本物の家族だった。

そのマヤの嗚咽がの心を抉る。

私はどこまでこんな風に誰かの気紛れに苦しまねばならないんだろう。私だけじゃなくて、マヤちゃんまで傷付けて、こんなこと知ったらまたキリちゃんだって怒る、エマも怒る、晴子さんだって怒るかもしれない。私が誰かに苦しめられると、いつも私以外の人たちまで不快な思いをする羽目になる。

もう成人だね、大人だね、成人式だねって騒がれながら、私はいつまで誰かの子供として振り回されなきゃいけないんだろう。私が親と暮らさなければならない子供なら、なぜ私には投票権があり、結婚の自由があり、契約の自由があるというのだ。私たちの権利は私たちのためのものではないのか。

私は公ちゃんと暮らしたいだけ。公ちゃんと毎日一緒にいたいだけ。

「マヤちゃん、大丈夫。いくらあの人が騒いでも、勝手に離婚させることなんか出来ないから」

の決意は固かった。いくらマヤの兄が血の繋がった父親でも、自分の人生に干渉させる気はなかった。というか、これまでの間にが持っていた父親というものへの良い感情はこの時全て消え失せた。彼が何を思ってこんな下らないことを言い出したのかはわからないが、逆効果だ。

だが数日後、困りきった顔の公延から報告を受けては血の気が引いた。

の父親が公延の実家を訪ね、娘を返してほしいと言ってきたらしい。公延の両親はもちろん彼を家には上げず、玄関の外で対応したのだが、見知らぬ男がの父親を名乗ってそんなことを言い出すので、仰天してしまって最初はまともに話せなかったらしい。

それでも最終的には公延の父親が「それは親とは言え第三者が勝手に決められることではない」と撥ねつけ追い返したそうだが、本人は「また来ます」と言って去っていったらしい。

話を聞いたの腸は煮えくり返っていた。

義父の言う通り、既に結婚してしまったものを第三者の要望で解消できるわけがないことは、わかっているのだ。わかっているから彼は「夫の実家に迷惑をかける」という手段に出た。本人たちが固い意志で結婚を継続したくても、それが続くなら周囲を困らせるぞ、という、遠回しな脅しだ。

そして公延の困りきった顔に体の真ん中が痛む。まさか離婚したいって思ってないよね。

無事に合格してこれからという時に、なんでこんなことに。

少しずつ暖かな日が増えてきているというのに、木暮家には未だ冷たい隙間風が吹いていた。