当然キリエの発言は酔っ払いの戯言として相手にされなかったのだが、本人はその思いつきが思考のはじっこにこびりついたまま取れなくなってしまった。
なぜならキリエは、が木暮対して良い印象を持っていることを知っていたからだ。
それは家庭教師が終わってから聞いた話で、実父と義父がオラついたタイプであるは「世の中には先生みたいな穏やかな男の人もいるんだなって思えてホッとした」と笑顔だった。ふざけて「はあーいう真面目そうなメガネが好み?」と聞いたキリエには、ちょっと照れくさそうに「好みって決まってないけど、素敵な人だなとは思うよ」とまで言っていたのだ。
さらにキリエは、木暮には現在交際している相手がおらず、母親の「孫欲」の高まりにより、「せめて結婚だけでも」という無言の圧力が負担だと言っていたことも知っている。だというのに知人だか友人だかの女性に言い寄られていて鬱陶しいという話も知っている。
「……キリちゃんは厄介なおばさんになりそうだよね」
「上等! 昔はそういう話いっぱいあったじゃん、天涯孤独の少女が遠縁の人に嫁いでとか」
「うん、昔はね」
「それこそだって成人したんだから、自由じゃん!」
「だからそれはオレたちが決めることではなくない?」
飲み会から数週間後、今日のキリエは素面なのでシュウジも真面目に相手をしているが、まさかあの戯言を本気にしているとは思っていなかった……というかすっかり忘れていたので、腕組みで首を傾げている。
だが、堅実なシュウジに決断力のキリエである。キリエはタブレットを引っ掴むと、そのまま木暮にビデオ通話をかけた。時間は22時になろうかというところ。
「あっ、もしもし、公ちゃん」
「かける前にせめて文字で連絡してよ」
「この間のの話なんだけどさ!」
「ほんとに人の話聞いてないよねキリちゃん」
どうやら風呂上がりだったらしく、木暮の髪は濡れたままボサボサになっており、メガネはちょっと曇っていた。そしてキリエの戯言を再度聞かされると、またメガネが曇りそうなほど勢いよくため息をついた。
「オレたちの親の世代くらいならまだそういうこともあったかもしれないけど……」
「公ちゃん、そのへんのことはオレが全部言ってあるからね」
「彼女がもっと年いってる、あるいはオレも10代ならともかく」
「ちゃんと話聞いてる? 10代同士大人同士が結婚したってこの問題は解決しないの!」
そう、キリエはキリエなりに彼女にとって「最も合理的」と思われる結論があの戯言だったわけだ。学費は祖父母になんとかしてもらうとして、慣れ親しんだ街から遠く離れなくて済み、節約生活でも最低限の暮らしは営め、そしてなによりの周囲にひしめく意地の悪い大人たちから離れて暮らせる、その最適解だったのだ。
「だから、昔の人と違って、現代人にとって結婚てほぼほぼ恋愛の延長だろ」
「恋愛感情なしで結婚したってだめなわけじゃないじゃん」
「確かに制度としてはそうだけど、それを18歳の女の子に強いるのはおかしいだろ」
「強いてないよ! てかダイちゃんなんかと暮らすよりよっぽど安全だって!」
「でもそれ、キリちゃんの憶測だろ」
「進学の話は本人が言ってたから事実だよ。このままいくとあの子は就職」
「結婚か就職の二択って」
「二択じゃないよ! 何もしなければ就職は確定。それを回避できる策の話をしてんの!」
キリエの鼻息の荒さに木暮のため息もどんどん荒くなる。
「いやちょっと待て、だったらオレと結婚とかアホなこと言ってないで、みんなで支援したら」
「ちょっとずつ出し合って助けてやれば、って話だろ?」
「それなら誰でも噛めるじゃん。そんなまだ18なのに結婚なんて」
当然の思いつき、という顔をした木暮だったが、そのくらいは高梨夫婦でも思いつくわけなので、ふたりは揃って「それな〜」と頭を落とした。
「でもさ、その金が出せるのって、うちらと、マヤさんだけなのよ」
「えっ……あれっ……マジで……?」
「マヤさん以外実の父親方面は全滅、母方は学費、他に誰がいるっての」
「うちも今ギリギリだし、マヤさんも自分ひとり養うので精一杯だしね」
高梨夫婦は起業したばかりの倹約生活、マヤはそもそも低収入でギリギリの生活、どちらもを支援したい気持ちだけは持っているのだが、双方合わせて片手も出せない状態。さてそこに本人のアルバイトとサヨの遺産の残りとで家賃も含めたひとり暮らしが可能かどうか。
「それは……よっぽど郊外のルームシェアかなんかで、バイトの隙間に学校くらいの生活が出来ないと」
「でしょ。だけど公ちゃんは結婚突っつかれてるくらいだから、学生ひとりくらい」
「オレだってそんな高給取りじゃないよ」
「だからあ、同じ生活苦なら、優しい人としたほうが! ね?」
キリエの思いつきは確かに強引で極端なのだが、現在を追い詰めている要素が消えるという点では木暮もシュウジも同意せざるを得なかった。ただそれが一般的には恋愛の延長である結婚という形であるのが問題なだけで。なのでキリエは自信満々という顔をタブレットに寄せた。
「てか公ちゃんさ、余計なことは置いといて、てどう?」
「どうって……しばらく会ってないから、正直そこは」
木暮にとってはいい逃げ口上だった。最後に会ったのは約2年前。10代の女の子は激変していてもおかしくない時間経過。だからわかんないよ――という程度でキリエが諦めてくれるならともかく。
「そんじゃ久々に会いますかね」
「キリちゃん……」
「その前ににも話をしてみて、それからまた連絡するわ! じゃね!」
「えっちょっ、待っ――」
ブチッと音を立ててビデオ通話は切れた。
「久しぶりー!」
「呼んでくれてありがとう」
「こっちこそこういう機会を作らなくてごめん。ゆっくりしていってね」
翌週、思い立ったらすぐ行動のキリエはダイキに「週末と一緒に過ごしたいから許可して」と連絡を入れた。だがは成人しているのだから、許可はいらないのが普通。そのあたりむず痒そうなダイキだったが、久々に義父から解放されると喜んでいたに全ての家事を済ませろだとか、食事を作り置きしていけだのと命令しただけで、高梨夫婦のマンションに出かけていくことについては何も言わなかった。
なので金曜の夜に働きまくったは土曜の早朝から浮かれて家を飛び出した。自由! この週末は自由! 遅くまで料理してたから寝るの遅くなってめちゃくちゃ眠いけど、こんな幸せなことってある!?
なのでキリエとシュウジに迎えられたは嬉しさのあまり泣きそうだった。
そして、ようやく現在のの全てがふたりに伝わることになった。
「……思った以上に最悪だった」
「ちゃんごめん……オレたちそこまでとは……」
「なんでふたりが謝るの。今日呼んでくれて最高に嬉しい」
の輝くばかりの笑顔が胸に痛い高梨夫婦だったが、性的虐待の方を疑っていたことや、実はサヨの葬式以来マヤとも連絡を取っていることなどを告白した。
「性的な方の、そういう心配はないかな。元々私には早く出ていってほしかったみたいだし」
「サヨさんを独占できると思ってたのかな」
「たぶんそう。うちのお母さん尽くしちゃうタイプだから、甘えまくってたし」
「うちのばーちゃん、ダイちゃんに甘かったからな〜」
ダイキの母親はキリエの祖母にあたる。キリエの母親とダイキは年が離れていて、遅くに出来た男の子をキリエの祖母は溺愛したらしい。
「でさ、既にちょっと手遅れなのかもしれないけどさ、って本当は進学したいんだよね?」
「前はそう思ってたよ。海外で仕事したいって思ってたし。でももう、早くお義父さんと離れたいから」
「就活とかしてるの?」
「ううん、まだ。担任と副担任がなんとかならないかって粘ってくれてて」
そう、の成績や向学心を考えると、就職はもったいない。それはシュウジが一番主張していることだったのだが、の学生生活を最もよく知る担任らがそれを諦めていないというのは、の問題に対して積極的になりきれていなかったシュウジの心にも火をつけた。
「あの話は聞いてるの? おじいちゃんとおばあちゃんが」
「うん聞いた。毎年非課税の分だけ出せるならって」
「例の叔父さんは大丈夫なの?」
「って言ってた。ええと、結局そのお金って、元はお母さんの取り分になるみたいで」
「あ〜なるほど」
「叔父さんは怒ったみたいだけど、おじいちゃんたちがいないと子供が育てられないらしくて」
そもそもの母方の祖父母は東京の江東区出身、超がつくほど江戸っ子の生まれ。だがふたりして自然が好きで、また息子がアレルギー体質だったことをきっかけに田舎暮らしを望み、今もそこで暮らしている。そして郊外住みゆえの貯蓄や不動産運用には苦心してきたそうで、への支援はそこから捻出するとのこと。
「てことはさ、学校は行かれるんだよね、合格すれば」
「でもアルバイトだけで大学生なんて出来るのかな。パソコンとか買わなきゃいけないのに」
「待った待った、それはちょっと置いとこう。学費はクリアになってるわけじゃん?」
「で、もし他のこともクリアになったら進学したいって気持ちはあるんだよね?」
身を乗り出す高梨夫婦に思わず肩をすくめただったが、それは事実なので頷いた。
もはや海外で働くなんていうことは砕けたガラスのような夢になってしまったけれど、もし進学が叶うならそんなことはどうでもよかった。目指していた大学ではなく、もっとランクの低いところでも構わない。この際短大だっていい。義父から離れ、自分で自分の生き方を模索出来るなら。
すると、キリエがさらに身を乗り出して声を潜めた。
「あのね、これはあくまでも私の思いつきで、すご〜く突飛な手段なんだけど、さ、結婚しない?」
何を言われるのかとドキドキしていたはゴフッとむせた。
「え、なに、結婚? どういう……」
「だってもう成人でしょ? 自分の意志で結婚できる」
「いやあの、進学の話だよね?」
「だから、結婚して夫の扶養に入って学生やるの。妻なら年間100万くらいバイト出来るし」
「ふよう?」
いくら成人したところで高校生である。突飛な話でポカンとしているに今度はシュウジが説明する。今回の場合は学費がクリアになりそうだし、収入を年間100万程度に抑えねばならない問題はあるが、それでも現在よりは安定した生活になるはずだ。
「理屈はわかったけど、それって相手が働いてて、私と暮らせるくらいのお給料がある人じゃないと」
「もちろんそう。てかって彼氏いたっけ?」
「いやいないけど……てかそんな理由で私と結婚て、まさか小金持ちのおじさんとか」
「わ、違う違う、そういう話じゃないから、そこは安心して」
「まあちゃんがどのくらいをおじさんと言うかにもよるけど……」
「あー、そうだね、ひとまずシュウジくんはおじさんて言うほどでもないかな」
「まじで!!!」
シュウジは木暮より3歳年上なので、だとしたら木暮は完璧「お兄さん」のはずだ。キリエの鼻息が吹き出す。
「んんっ、だからね、ひとまずそういう『アイデア』なんだけど、それだけを考えると、どう?」
「うーん、正直魅力ある。進学できるだけでも嬉しいし、あの家を出られるのも嬉しい」
そもそもマヤには分籍を勧められていたのだが、あの威圧モンスターになってしまったダイキには怖くて言い出せないでいた。もまたダイキが姻族関係終了届を考えていることなど知る由もないので、きっと義父は半永久的に自分を召使いにするつもりなのだろうと思っていた。そこから抜け出せるなど夢のようではある。
「自分がこういう状況になっちゃったのは仕方ないし、お母さんが亡くなった時に、自分はもう友達みたいな生き方とか、将来ってないんだなって思ったし、もしそんな、大学に行けて、アルバイトも出来て、私を召使いみたいに扱わない人と暮らせるんだとしたら、最高だと思うけど……」
けど、なのである。
「でもそんな、私と結婚できる状態の人に知り合いなんかいないし、私だって好きになれるかどうかも……」
「だよねえ」
「しかもその人にはなんのメリットもなくない? 税金が安くなったって、負担は増えるよ」
「まあそれはそう」
「そんなあしながおじさんみたいなこと、ありえないんじゃないかな」
の分析は的を射ているが、キリエはニヤニヤしてしまいそうで口元を覆っていた。都合のいいあしながおじさん、それよそれ。学びたいという意思を持つ少女に経済的支援をした上にプロポーズまでしちゃうのよ。
「ではここで私から提案! そのあしながおじさんに心当たりがあるんだけど」
「え」
「もよーく知ってる人」
「え!?」
「はい、公ちゃんでーす!」
キリエはの前にタブレットを突き出した。モニターいっぱいの木暮の顔に、はまたむせた。
「えっ、先生……?」
「そう。もしそのあしながおじさんが公ちゃんだったら、どう思う?」
「……先生が、私と結婚するって、言ってるの?」
「いやそこまでは。だってこれ私の思いつきだから」
「あ、そ、そっか……」
実はタブレットの写真は木暮が学生時代のものなのだが、正直大差ない。相変わらずの前髪メガネで人畜無害としか言いようのない風貌、長年バスケットをやっていたのでしっかりした体つきをしているが、顔が面長のせいか、すらりとして見える。
混乱激しいは口元にこぶしをあてて考える。
木暮のことはよく覚えている。優しいお兄さんといった感じの人で、清潔感もあり、受験でいっぱいいっぱいになっていたに緊張を抱かせない物腰をしていた。自宅で勉強を見てもらったのはほんの数回だったのだが、見慣れない年上の男性に対する嫌悪感や不審感は微塵も感じなかったし、教え方も上手かった。
高校に合格したことで付き合いはそこで終わったが、木暮に対しては不愉快な思いをしたことがなかった。それは確実だった。それに、からかうようにキリエに「ああいうのが好み?」と聞かれたときにはつい、彼を至近距離で見つめる想像をしてしまい、顔が熱くなった。それでもいいなと思ったからだ。
公立の中学生だった当時のにとって、24歳の新米高校教師であった木暮は、大人だけど大人すぎないお兄さんであり、かといって自分を子供扱いもせず、過剰に女扱いをするわけでもなく、自身が大人になろうとしている時期にあって、最も安心できる「男」だと感じていた。
もちろん義父は安心できない男だったし、同級生たちは幼くてバカっぽくて、心と心が繋がる相手とは思えなかった。それは高校に入っても同じで、母を亡くしてからはそんな余裕もなかったけれど、は今いきなり、自分が10代で目一杯恋を楽しんでいい時期なのだということを思い出した。
キリちゃん鋭い……確かに先生は素敵だなって思える人だし、例えば友達から始めてみませんか、気が合うなら付き合いませんか、みたいなことになっても、すぐに頷ける相手だ。それにたぶん、先生はどんなことになってもお義父さんみたいにはならないと思う。先生やシュウジくんはそういうタイプじゃない。
シュウジはカップで飲み物を飲む時、必ず両手で包みこんで持つ人だ。対するキリエはテンションが上ってくるとダイニングチェアに片膝を立てて両腕でジェスチャをしながら喋る人だ。そんなふたりをは自由でいいなあと思っていた。
先生はそんなふたりを「男のくせにナヨナヨしてる」とか「女のくせに品がない」とか言うタイプではない。なにしろいとこであるシュウジくんとは小学生の頃から仲良しだというし、この高梨夫婦とはしょっちゅう一緒にご飯食べたりしてると言うし、だからきっと私に向かって命令をしてくるような人ではない気がする。
オレの言う通りにしろ、オレの命令には逆らうな、オレの方が偉いんだぞ。先生ならそんなこと絶対言わない。
その代わり先生は言ってた。
海外行きたいの? いいじゃん、いい夢だと思うよ。いやいや、大丈夫だって。海外でお仕事してる日本人はいーっぱいいるから絶対大丈夫。オレが高校の時に目指してたものよりずっと現実的で必ず自分の手で掴める夢だよ。えっ、オレの夢? インターハイ優勝。1回戦突破したことないのに優勝するつもりでいたんだよ。
先生のインターハイがどうなったかは知らないけど、きっと誰もが「バカみたいな夢」と笑ってたと思う。だけどそんな夢を描いていたことを、先生は楽しそうに話してくれた。だから、奇跡でも起こらない限り掴めないような夢でも、先生ならやってみなよって言ってくれるんじゃないか。
それはつまり、未来は自分の手で掴めるかもって、思ってもいいって、信じてるからなんじゃないのかな。
そういう人なら。私もそういう風に生きていけるなら。
今私が一番欲しいものは、そういう風に生きていっていいって、思えることだから。
「まあね、公ちゃんもぼんやりしたところがあったりするけ――」
「キリちゃん」
「んお、どした」
そんなの今だけだって、言われるかもしれないけど。
「私、先生なら結婚してもいいかも」