の実父である樫井モトヒロが高梨夫婦の会社までやって来たのは数日前の日曜のことで、その時のことをキリエは「しかも自宅じゃなくて事務所の方にカチコミかけて来やがって、マジで通報しようかと思ったんだけど、あいつ上手いの。中には入ってこないんだよ!」と言いながらカルピスをガブ飲みしていた。
この時点ではと公延にどう報告しようかと慎重になっていたので報告が遅れたのだが、その間にモトヒロは公延の勤務先である高校へ襲いかかり、たまたま公延が不在だったために、モトヒロからマヤ経由でに報告が来た。瞬間、はもう様子を見ていられないと判断、とマヤを伴って樫井家までやってきた。
百歩譲って義実家の方の木暮家や高梨家はいいとしよう。対策を練ってから対処すべき問題だと思っていた。だが、公延の職場は一刻の猶予もならない事態だと思った。公延不在の高校はそれでも冷静に対処をしてくれて、事情を全て知る教頭が上手くあしらって追い返してくれたようだが、迷惑だとかいう範疇を超えている。
おそらく公延へは教頭からすぐに連絡が行っているはずだし、まずは学校に戻って事情説明と謝罪をせねばならないだろうし、樫井のことは一応血縁である自分がなんとかせねば、とは決意してやって来た。駅からの道すがら、桜がちらほら開花しているのを見ただけで腹が立った。
「勘違いしないで。私はこの家に入る気はないから」
「えっ、なんでだ。部屋もいっぱいあるぞ。出窓のある部屋を使っていいんだぞ」
モトヒロはが自分の要望を飲んだものとすっかり思い込んでいるらしい。段ボールや紙袋で溢れかえっているリビングは汚く、本皮張りと思われるソファは穴だらけ、無垢材と思われるテーブルも欠けや削れが目立ち、しかも埃や汚れがそのままになっている。
その上モトヒロが用意してきたティーカップは茶渋がこびりついていて、とてもじゃないが口をつけたくはない。高価な紅茶を用意してくれたが、は無視した。
それに、出窓がオシャレみたいなこと言ってるけど、何年前の話だ。お母さんの時代の話だろ。
「どんな理由があっても、この家では暮らさない。それから、人に迷惑をかけないで」
「迷惑なんかかけてないだろ。父親として、娘と暮らしたいと願ってるだけだよ」
「その娘は父親と暮らす気がないの。今ここで断ります。嫌です。諦めて」
見たところ父親は記憶の中の影とはそれほど変わらないように見える。公延ほどではないにせよ背は高め、肩幅が広く、年齢にしては引き締まった体をしているようだが、顔がかなり荒れている。10代じゃあるまいし、何あのおでこのニキビ、とは思ったのだが、この様子では食生活が乱れているのかしれない。
「何を言ってるんだ、親子がお互いひとりでいるんだから、一緒に暮らせばいいじゃないか」
「私はひとりじゃない。それにもしひとりになったとしても、この家で父親とは暮らさない」
「まだ若いのにそんなに頭が固かったら困るぞ。ていうかが来ればマヤも帰ってくるだろ?」
「え、わ、私は、無理だよ、自分のことで精一杯だもの」
急に話を振られたマヤはしどろもどろ、蛇に睨まれた蛙状態だ。子供時代を長く抑圧されてきたトラウマで、兄が未だに怖いのかもしれない。それを見ていたはふと思いついて言ってみた。
「ていうかおじいちゃんとおばあちゃんはどうしたの。いないの?」
「いや、いるけど、寝てるんじゃないか。ふたりとももう年だからな」
「おか、お母さん、具合はどうなの、前に、ガンだって」
「ああ、あれは大したことなかったんだよ。入院も短かっただろ」
「それは、聞いたけど、その後のことはあんまり聞いてないから」
ふたりの話から察するに、祖母は数年前にガンを患ったらしいのだが、幸い初期だったので手術は問題なく成功し、入院も短期間だったらしいが、マヤが把握しているのがそこまでらしい。モトヒロは祖母の体調よりも、自分がその時何をしていたかという話に夢中になっている。だが、慎重に聞いていると、モトヒロ自身は特に何もしていなかったようだ。つまり、祖母の入退院やその後のケアはもしや、先日離婚したという後妻が幼い子供を抱えながらやっていたのでは。
はちらりと室内を見て、口を挟んだ。写真が飾ってある。
「……あれが弟?」
「そう! そうだよ、弟がいるんだ。オレにそっくりだよ」
「2番目は?」
「ああ、あれは弟じゃないから気にしなくていい」
「また男の子だったの?」
「さあ、それはどうだったかな、でもまあ、男だろ」
隣のマヤの腕がふるりと震えた。兄の言葉ひとつひとつが恐ろしくて仕方ないのだろう。
「ていうか仕事は? 今日平日だけど」
「仕事は今リモートなんだよ。だから都合をつけるのは簡単。そうだ、毎日学校に送っていってやれるぞ」
「さっきから私が一緒に暮らす前提で話してるけど、暮らさないって言ってるでしょ」
「小さい頃は素直な子だったのに、どうした。親の言うことは聞きなさい」
「どの口が親とか言ってるの? 何年会ってなかったと思ってるの」
「そうか、ずっと寂しかったんだな。大丈夫、これからはずっと一緒にいられるから」
「私の言ってることの意味がわからないの!?」
ずっと頭にきていたは我慢しきれずに大声を出した。無駄に広い家の中に声がこだまする。
「なんて声を出してるんだ。おじいちゃんたちが起きちゃうだろ」
「いい加減にして。私は一緒に暮らすのは嫌だって言ってるの。もう二度と会いたくないの」
「お前な、よくそんな親不孝なことを言えたな。一体誰のおかげで――」
「お母さんのおかげに決まってるでしょ!!! 私をここまで育てたのはサヨだけ!!!」
「バカ言うんじゃないよ、お前を残してさっさと死んじまったじゃないか」
「死にたくて死んだんじゃない!」
は怒りで息切れがしてきた。頭がくらくらし、吐き気がする。
だが、そのために目元に手を置いて深呼吸をしようとした時、父の口元が目に入った。ゆっくりと口角が上がり、満足そうな笑顔を浮かべたように見えた。瞬間、の意識は鮮明になり、怒りに混乱していた思考がコントロールを取り戻した。
こいつは、わかってやってるんだ。わけのわからないことを並べ立てて、話の通じない人間を演じてるだけだ。だからきっと、私と親子に戻って一緒に暮らしたいなんていうのは嘘だ。他に何かあるはず。こいつにとって、私と暮らすということが必要な理由は何? 得をすること、こいつが自分にとって利になることって何?
お金は関係ない。金は持ってる。確かお母さんより高学歴でエリートだったはずだし、仕事が出来ないタイプでもなかったはず。この汚い家だって、その金があるんだからハウスクリーニングを入れればいいだけだ。そもそもこの状態で暮らしてるんだから気にならないのかもしれない。人恋しさも違う。マヤちゃん言ってたじゃん、固定の女に興味なくて、セフレでよかったって。だからそれも違う。
両目を手で覆いながら必死で考えていただったが、これという答えにたどり着けなくて焦ってきた。指の隙間から見れば、父の口元はニヤニヤと歪んでいる。そして明らかな猫なで声でマヤの体調を気遣うようなことを言っている。マヤは言い返せないようだが、白々しいにも程がある。
そんな時だった。春の薄曇りで窓から差し込む光が弱く、どんよりと暗かったリビングに軽やかなチャイムの音が鳴り響いた。レトロだが美しい鐘の響きのチャイムだ。
来客の予定なんかないと文句を言いつつモトヒロが席を立ったので、は急いで窓にへばりついた。玄関が見えるはずだ。そしては、その時見た光景を生涯忘れないと思った。左右対称邸宅のファサードの真ん中にある重厚なドアの玄関、その前にスーツにコート姿の公延が立っていた。
「公ちゃん……!」
「えっ、木暮さん来てくれたの!?」
が思わず上げた声にマヤが飛び上がる。はそのマヤを置いて玄関まで走った。ちょうどモトヒロが玄関ドアを開けるところだった。
「はいどちら――お前!」
「妻がこちらにお邪魔しているはずですが」
「公ちゃん!!!」
は駆け出し、父親を突き飛ばして夫に抱きついた。公延はその体を抱きとめ、そっと頭を撫でた。
「……遅くなってごめん」
「公ちゃん、公ちゃん……!」
「おい、娘に何をするんだ。いい年した大人が少女にいかがわしいことを」
やけにすらすらと言うモトヒロだったが、はもちろん、公延も動じなかった。慌ててオロオロしているのはを追いかけてきたマヤだけだ。玄関ホールから伸びる階段の手すりに捕まって青い顔をしている。
「私たちは夫婦なので、淫行には当たりませんよ」
「親は子を守るもの。例え法が許してもオレは許さないぞ」
「許さずに何をするつもりですか? 私に暴力を振るいますか? それともその法に訴えますか?」
さすがに公延もすらすらと返している。が怒りと吐き気でいっぱいになるように、確かにモトヒロを確実に止める手段はない。けれど、それは逆に言えばと公延の結婚を親だからという理由で破綻させられないことでもある。モトヒロはそれを充分理解しているはずだ。
「君は高校教師をしているそうだね。それが女子高生と結婚したということの意味をもう少し考えた方がいいんじゃないか。それにの幸せを考えてみろ。聞けば予算の都合で志望校を変えざるを得なくなったそうじゃないか。それで家族だなんて聞いて呆れる。大方ひとり暮らしの面倒なことをに押し付けて楽をしようと企んだんじゃないのか? そして娘をグルーミングして性加害とはまったく恐れ入るよ」
普通の人であれば、この「煽り」に抗えずに頭に血が上ってしまっただろう。だが、結局のところ公延が冷静でいられるのは、長く続けてきた競技生活の中で培った「キレたら負け」の精神であったのかもしれない。それでなくとも高校時代はなぜかヤンキーと縁が切れず、喧嘩に暴力沙汰に流血に停学には慣れていた。
それに比べたらこの程度の煽りなど、子供のあかんべえだったのかもしれない。
「それら全てそちらの妄想なのは自覚がありますか? 日常の家事を全てに押し付けたのはサヨさんの再婚相手ですし、私たちに肉体関係はありません。それに、この結婚を思いついたのは高梨キリエで、我々はその話が出るまでは個人的に連絡を取り合う間柄ではありませんでしたから」
公延は触れなくていいことは極力避け、モトヒロの言いがかりの部分にだけ突っ込むかたちで打ち返している。
「それに、私の幸せは私が決めるから、勝手なこと言わないで」
「お前はまだ若い。判断力もないんだから、大人の言うことは聞いた方がいい。後悔しないためにね」
「だとしてもあなたの言うことは聞かない。そっちこそ親らしいことなんか――」
公延と手を繋いで一生懸命言い返していただったが、突然言葉を切って息を呑んだ。乾いた喉に唾液を飲み込んだ音が鳴る。その様子に樫井家の玄関ホールは一瞬静まり返り、
「マヤちゃん……2階、見てきた方がいいんじゃ、ないかな」
「……、何を言うんだ」
「マヤちゃん、親に、会ってきた方がいいと思う」
「、やめなさい」
それまで余裕のある表情をしていたモトヒロの頬が引きつり、唇が歪む。それを察したマヤが真っ青な顔をしながら階段を駆け上がっていった。モトヒロはそれを止めようとして踵を返したが、階段の前にと公延が立ち塞がっていた。そして数十秒後、2階からマヤの悲鳴が聞こえてきた。
「……に親の介護をさせるつもりだったんですね。今までは妻に丸投げしていたけど、離婚で自分がやる羽目になってしまった。それが嫌でに白羽の矢を立てたんですね。しかもだけじゃ心許ないから、マヤさんまで取り戻そうとした。自分のやりたくないことを押し付けるために。色々仰ってましたが、ほとんど自己紹介だったようですね」
見る間にモトヒロの顔が赤く染まっていく。けれどそれは羞恥の赤面ではなく、怒りの興奮によるものだったようだ。と公延は繋いだ手をきつく握り締めながら来栖ダイキを思い出していた。本当にこのふたりは「同じ種類」の人間だった。サヨはこういう男がどうしようもなく好きだったのだ。
「確かに、現状あなたとの縁を完全に切ることは出来ません」
「当たり前だ……血の繋がった親子なんだぞ……」
「ですが、我々が手も足も出ないと思ってもらっては困ります」
が夫の顔を見上げると、今まで見たこともないような厳しい顔つきをしていた。
「血縁者に接近禁止命令を出すことは出来ませんが、仮処分命令は出ますし、記録として残ります。あるいは親族関係調整調停の申立ても出来ます。成立は難しいそうですが、やはり記録には残ります。あるいは私や高梨はあなたとは他人ですから、迷惑行為が続くのであればいつでも法的措置を取ります。その際はどんな言い訳も通用しない。はあなたの娘かもしれませんが、私たちは違います。その意味をもう少し考えた方がいいと思いますよ。後悔する前にね」
モトヒロがぐうの音も出なくなっていると、2階からマヤが泣きながら降りてきた。
「ひどい、お兄ちゃんひどい、ふたりとも、まるでモノみたいに」
「お前は黙ってろ! 人に親を押し付けて楽に生きてるくせに」
「私が楽に生きてる!? 言ってる意味わかってるの!? どこまで自己中なの、いい年して!」
「うるさい、出ていけ! ここはオレの家だ! 二度と足を踏み入れるな!!!」
ようやく本音が出たらしいモトヒロは肩で息をしている。マヤは無言でリビングに入ると、自分との荷物を抱えて戻り、そのまま玄関を出ていってしまった。それを追ってと公延も玄関から出ると、振り返る。
「これは樫井でも、でもありません。木暮で、私の妻で、家族です。あなたのような大きな子供ではなく、強い心を持つ青年で、大人です。先程も言いましたが、私たちには肉体関係がない。それでも私たちは心から想い合い、助け合い、共に暮らすことを望んでる。あなたは邪魔です」
3月の柔らかな風が樫井家の庭に吹き込み、はそう言う夫の横顔を見ていた。繋いだ手は固く、温かく、その手のひらを介して心までもが繋がるような気がした。決別のときである。
「私の家族にひどいことをした、それを水に流すことはないから。いつか時間が解決するとか、許すことが大事とか、そんな綺麗事は起こらない。一生。永久に。今ここであなたの娘と妹は死んだ。あなたには父親と母親だけしかいない。二度と私たちに関わらないで」
そして返事も待たずに玄関を離れた。門の外ではマヤが肩を落として待っている。
と公延の背後で、重厚な音を立てて玄関ドアが閉まった。