居た堪れなくなってしまったは、いくつか言い訳をこしらえてマヤのアパートに逃げた。相談がてら2日ばかり泊まってくるというメッセージを送ったに、公延は了解のスタンプを返してきただけだった。彼がスタンプひとつで返信を済ませるのはいつものことだが、今日だけはそれが他人行儀の無感情なものに見えた。
それに案の定マヤは体調を崩して寝込んでおり、の来訪は喜んだものの、ベッドに横たわって喋るくらいしか出来なかった。なのでは彼女の看病をしたり、掃除や食事の支度などに精を出した。やりたくて覚えたわけではない家事だったけれど、黙々と掃除などしているのは気が紛れる。
「そっか、木暮さんが……」
「マヤちゃんから見たらまだ子供っぽいくらいだと思うけど」
「そうだね、私から見るとふたりともそんなに大差なく見えること、あるよ」
マヤは特製のスープを啜りながら、ふわりと笑った。
「私は恋愛のことはよくわからないけど、お似合いのふたりだと思ってたんだよ」
「てマヤちゃんいつも言うけど、本当に今まで誰とも恋愛しなかったの?」
「それって付き合うってことでしょ。そう。誰とも。たぶんもう一生無理だね」
「そんなこと……」
マヤがこの不安定な体を抱えてひとりで暮らしているのは、親と兄が合わないから、という話だけは聞いていたけれど、それ以上の詳細を話してくれたことはなかった。なにせの方が幼かったし、そんな話が出来る年代に突入したと思ったらの方がそれどころではなくなってしまった。
「だって私、こういう体だし、美人でもないし、ぼけーっとしてるし、いいとこないから」
「え、なに言ってんの、そんなことないから」
「ありがと。でも私を好きになる人がいなかったのは事実だし」
「そ、そんなの! これから出会うかもしれないじゃん!」
「あはは、こんな年で? そういう漫画なら読んだことあるよ」
「いや待って、私だって崖っぷちだった。ひとりぼっちで就職寸前だった。でも奇跡は起きたから!」
がそう訴えるも、マヤは本気にしていない様子で笑うばかりだ。
「それに、私だって誰でもいいわけじゃないもん。私は人より劣る部分が多いから、大抵の人が私を無条件に見下してくる。私にとって世の中の人のほとんどは攻撃してくる存在なの、モトヒロみたいにね。だから私も人を信用できない。なのに恋愛なんて、私にそういう運命はないんだと思う」
しかしにとっては母方の祖父母とこのマヤだけが信頼できる「血縁者」だったし、幼い頃から優しくて大好きな叔母さんだった。そんなことを言われてしまうと悲しくてしょうがない。
「私のことはいいんだって。もうそういう人生を生きてきちゃったし。高校生に戻ってやり直しは出来ない」
「でも私はいつもマヤちゃんに助けてもらってるから」
「大したこと出来てないのに〜」
「そんなことないって! いてくれるだけで充分なの!」
サヨはもう、いることすら出来ないのだから。マヤは手を止め、眉を下げて微笑む。
「私は家族が苦しかったし、生きることも苦しいし、何が楽しくて生きてるのって言われても、すぐに答えられないくらいだけど、あなたの力になることは、こんな私でも出来るから。大した力じゃないけどね。それに、自分がこういう人生を送ってきてしまったのなら尚更、あなたには同じ道を辿ってほしくない。せっかく信頼できる大好きな人と暮らしてるのに、それを奪われるなんて、絶対ダメ」
本当に幼い頃はマヤのことを「ひとりで働いて暮らしている大人の女性」だと思っていた。けれど、年齢が上がるにつれて、マヤの生活環境が一体どういうことなのかが分かってくると、なりに複雑な思いを抱いてきた。お互い自分の力ではどうにもならない現実に直面しているという意味では同士だと感じるけれど、必要なサポートの種類は全く異なるし、本人の言うように、まだ年若いには支援が必要でも、マヤにはその価値がないと考えるのが一般的なはずだ。
「だから、あなたたちが今のままふたりで暮らしていけるように、私にもなにか出来るなら」
「……マヤちゃんはそんな心配しなくていい」
「え、でも……」
なんだか無性に腹が立ってきてしまったは、きょとんとした顔をしているマヤをキッと睨みつけると、背筋を伸ばして思い切り息を吸い込む。
「私マヤちゃんのそーいうところ嫌い」
「え」
「そんなヨレヨレになって私を助けたいとかいらない」
「……」
「マヤちゃんが擦り減ってる横で自分だけ幸せになっても嬉しくないから。そーいうのやめて」
自身の複雑な状況について、本心がよく見えない夫について、知りたくもないが知らないわけにもいかない父や祖父母について、自分たちのこれからについて、そんなことを相談しようと思って来たけれど、の心に燃え上がった炎は全く違う色をしていた。
私の幸せは私が決めるけど、私の幸せだけが私を幸せにしてくれるわけじゃない。
マヤちゃんが幸せじゃないとダメ、公ちゃんも幸せじゃなきゃダメ、エマも、キリちゃんとシュウジくんも、のおじいちゃんとおばあちゃんも、それから公ちゃんのお父さんとお母さんも幸せじゃなきゃダメ。私を取り巻く全てに幸せがあるから私の幸せが幸せになるんだってこと、よくわかった。
マヤのやつれた頬に涙が一筋伝い、はそれをティッシュで拭った。
「ねえマヤちゃん、マヤちゃんの親とお兄ちゃんに、喧嘩売っていい?」
涙を零しながら、マヤは吹き出した。
「好きなだけボコボコにして」
翌々日になるとマヤの体調はすっかり落ち着き、彼女は「今日は怒られるのが仕事」と言いながら出勤していった。それと駅で別れたはまっすぐに家に帰り、まずはの祖父母に電話をしてモトヒロの件を報告し、サヨとの結婚当時の話を聞かせてくれと頼んだ。
だが、親だというのに情報量はマヤとそれほど差がなく、離婚の原因についても同様。そもそもサヨとは確執があったという事情もあって、基本的には何でも事後報告だったらしい。公ちゃんかよ。
「じいちゃんたちは、未だにモトヒロくんがどんな人間だったかわからないんだよ」
「確かに離婚するまでは私もおじいちゃんたちにあんまり会わなかったよね」
「モトヒロくんがこっちまで来たことは1回もなかったな。それは来栖くんも同じだったけど」
「じゃあ家族の顔合わせとか、結婚式とか、そういうところで?」
「実はな、モトヒロくんの時は結婚式はやってないんだ」
「え、そうだったの?」
来栖ダイキの時は白亜のイベントスペースでパーティ形式のウェディングパーティと、身内だけのチャペル婚をやった。それは自身が出席しているので記憶にある。思い返すとずいぶん費用のかかったセレモニーだったような気がする。なのに初婚で何もしなかったとは……。
「もしかしたらふたりだけとか、友達だけ呼んでとか、そういうのはあったのかもしれん」
「あのさ、モトヒロ時代の写真がものすごく少なかったんだけど、遺品」
「そりゃそうでしょうね。離婚のときに捨てたはずよ」
「そうだ、お前は手伝いに行ったんだよな」
モトヒロとの離婚が決まり、祖母は引越の手伝いのために上京してきたらしいのだが、とにかく大量のゴミを捨てた記憶しかないという。その時点で当時のマンションには既にモトヒロの私物はなく、最後にとサヨの荷物を運び出して清掃すれば終わり、という状態だったらしい。
「だから、これも妙な話だけど、じいちゃんたちは数えるほどしかモトヒロくんとは会ってないんだよ」
「でもあんたの言う、向こうのおじいちゃんたちがうんというわけない、ってのは正しいと思う」
「そうそう。僻みっぽく聞こえるかもしれんが、気位の高い成金て感じだったからな」
堰を切ったように樫井の祖父母に対する愚痴が大量に出てきたので、はつい笑った。母が生きている頃はこのの祖父母ともたまにしか連絡を取り合わなかったので、急にふたりが人間臭く見えてきた。
そして樫井の祖父母は聞けば聞くほど絵に描いたような高慢な夫婦で、特に自分たちが「夫側」の親族であることにより「格上」という姿勢を崩さず、結婚前の会食のときも、勝手に上座を陣取り、の祖父母は子供夫婦を挟んで一番下座に座らされたらしく、初対面から印象は最悪だったようだ。
「ただな、それはお前が生まれる前の話だ。それ以降の樫井さん家がどうなっていたか、じいちゃんたちは全く知らないんだよ。マヤさんも普段は別々に暮らしているわけだし、モトヒロくんが再婚したあとのあの家の中については、本当にどうなっているかわからない。あの偉そうなお父さんとお母さんだって、おそらく80前後のはずだし、あの樫井家は様変わりしているかもしれないぞ」
は微かに唸りながら何度も頷いた。マヤは、特にの異母子が生まれて以後は実家にほとんど足を踏み入れていないらしい。大きな家なのでマヤの部屋は残っているそうだが、そこにすら入ることは憚られた。なので古いがちょっとした豪邸である樫井の家の中については、誰も何も知らない状態。
自身、父はもちろん、祖父母と会ったのは離婚前が最後。一応父モトヒロは養育費の義務があったわけだが、当然未払い。親も無視。なので離婚で引っ越して以来、の前から樫井の人間は消失したも同然になっていた。サヨが来栖ダイキと再婚してからはマヤとも疎遠になっていた。
「なるほど、喧嘩を売る、なあ。お前も下町の人間の血を引いてんだなあ」
「何を呑気なことを。、公延くんとよく相談するのよ」
「彼に迷惑をかけたくないって思うだろうが、夫婦は助け合う義務があるんだからな」
まさかその夫がろくに話もせず自分の意見も言わずにいて、もう2日も顔を合わせてないとは言えない。は後ろめたい気持ちになりつつも、明るい声で返事をして通話を終えた。
公延がもし、結婚は制度の利用だし、進学させてやりたかっただけだから、あとは実の親になんとかしてもらって、もう自分は離婚してお役御免になりたい、と言い出したら何もかもが終わる。そうなってしまったらは結局ひとりぼっちで就職に逆戻りだ。あの父や祖父母とは暮らせない。
そしてそれは、その瞬間「ただのわがまま」に変化し、は支援する価値のある人間ではなくなる。実の親が生活と学校の面倒を見てくれると言っているのに、その親と暮らしたくないというのは、たとえどんな事情があろうとも「身勝手な理由」になってしまうのである。
は頬杖をついてため息もついた。
もし公ちゃんに捨てられたらマヤちゃんと暮らそうかなあ。ていうか私と離婚したら公ちゃんキリちゃんにすっごい怒られる気がするけど、いいのかなそれ。それに、もう一年目の学費払っちゃったんだけど、あれって入学できなくなっても返してくれないよね。は〜叔父さんに怒鳴られそう〜。
マヤちゃんに自信満々で奇跡は起こるとか言っちゃったけど、そんなことになったらマヤちゃんもっと絶望しそう。いや待て、マヤちゃんと暮らしてたらモトヒロはいつまでもしつこくしてくるかもしれない。そしたらマヤちゃんと暮らすのは無理か〜。てか就職ってどうやればいいんだ……もう相談できる人もいないじゃん。
進学を勝ち取っていたことと、この状況に対する怒りが気持ちを前向きにさせていたけれど、は突然空気が抜けたように背中を丸めて頭をがっくりと落とした。
結局なんも出来ないのな私。公ちゃんがいなかったら全部崩壊しちゃって、完全に逆戻り。
私を守られてるだけの役立たずにしないで。それじゃ私はいつまで経っても大人になれない。
そう思ってるのは今も変わらないけど、私は大人なのに大人がいなければ大人になれないんだな。
またすぐにエマの家やらに逃亡するのは気まずくなるだけなので、は努めて「何もなかった振り」で数日を過ごした。桜前線が徐々に迫ってきていたけれど、そんなことはすっかり忘れていたし、入学が出来なくなるかもしれないという不安で新生活の準備の手も止まっていた。
3月の末頃、関東では迫る桜前線を前に厳しい寒の戻りが訪れており、やたらと寒い日が続いていた。バレンタインの直後などふたりの関係が良好な時は寒くなるとすぐに鍋にして、それを囲んで楽しく食事をしたものだったが、最近はスープやシチューばかりがメニューに上っていた。
時期的には春休みだが公延は新学期からの授業内容がかなり変わるとかで、休日でも私室に籠もることが多かったし、平日でも仕事で帰宅が遅いという日が増えていた。
その間に頭がクールダウンしたらしい木暮の義母はしおらしく謝罪をしてきて、私たちは味方よ、などと言ってきたけれど、いやその前にあんたのところの息子がさ……とチクるわけにもいかず、私も離婚はしたくないんですが、と言うしかなかった。
その中でしつこく怒っていたのはエマで、の問題も腹が立つが、このまま離婚にでもなったら唐揚げパーティが中止になるじゃないか、合格したときに約束したじゃん公ちゃんのバカ、とずっと怒っていた。
そして、唐揚げパーティの開催すら見通しが立たないまま、4月に入った日のこと。
はマヤと一緒に樫井の家のリビングで頭に血が上っていた。
モトヒロがとうとう公延の勤務先と高梨夫婦の会社の事務所を急襲、その連絡をマヤ経由で聞いたは堪忍袋の緒が切れ、東京の世田谷区にある樫井邸に乗り込んだ。
実に10年以上ぶりの樫井の家だったが、そこは大きくて豪華そうに見えるだけの、薄汚れて手入れのされていない、この家で育ったマヤですら驚く朽ちかけた邸宅だった。
「どうだ、立派な家だろう。この家はいずれ全てのものになるんだぞ」
笑顔でそう言う父親の顔は、見知らぬ他人にしか見えなかった。