現在が通っている県立音羽東高校は穏やかな校風の、中の上、あるいは上の下くらいの程度の学校である。暴力沙汰や女生徒の妊娠などは過去に例がないが、進学率も6.5割程度と決して高くはなく、良くも悪くも目立たない感じ。制服もそれほど可愛くない。
新学期、そんな音羽東の3年4組の教室で、は親友のエマのニヤニヤ顔を見ながら弁当を食べていた。
「で、どうだったの、新婚初夜は!」
「してないって言ってんじゃん」
「それ聞いたの結構前だよ。その後に初夜しなかったの?」
「してない。てか公ちゃんはそのつもりないもん」
「いやそれ絶対無理だって〜」
本来ならもこの私大文系コースである3年4組だったはずなのだが、就職コースに入るしかなかったため、現在は8組。なのでエマと昼食を取るために4組までやってきている。そしてエマは友人らの中で唯一全ての事情を聞かされている人物なので、の新婚生活について興味津々の様子。
「てゆかさあ、年上っていうけどさあ、27だっけ? レオン様の方が全然歳上なんだけど」
「芸能人と比べてもしょうがないけど……確かにおじさんていうよりお兄さんかな」
「お兄さん女の好みはどうなん」
「そーいう話はしてないけど、シュウジくんによれば、だらしない人は苦手みたい」
「ふぅん、じゃあいいんじゃないの。合いそう」
そかな、と曖昧に返事をしただったが、それには完全に同意だった。おそらくシュウジは無用な摩擦を回避するためと考えたのだろうが、他にも卑怯なことを嫌うとか、争いを好まないとか、幼馴染のいとこから見た公延の人となりを教えてくれた。それを聞いたは、基本的には合いそう、とエマと同じことを思った。
「あとは普通にタイプとしての好みだよね〜。そっちはどうなの」
「だから私は普通に好きって言ってんじゃん。タイプってよくわかんないし、優しそうなメガネだよ」
「てか私まだ顔見てないよ。写真ないの、全身の」
「隠し撮りなら」
「なんで隠し撮り」
エマはさも可笑しそうに笑うけれど、夫の全身の写真を撮る正当な理由がない。ふたりで自撮りをする必要もないし、どちらかというとお互いの写真はスマホの中にない方が安全。なのではふたりでスーパーに買い出しに行った際、離れた場所から公延を隠し撮りした。
「……顔わっかんねえ〜」
「顔がわかるものはまだ私も手に入れられてないんだから無理」
「ふぅん、スタイルいいじゃん。けっこう背高くない?」
「高い。180あるみたい」
「腕なが〜い。手も大きい〜」
「中学から大学までずっとバスケやってたんだって」
「ふふん、いいじゃ〜ん。この長い腕でギュッとされたくない?」
「された〜い」
「この大きい手で恋人繋ぎしたくない?」
「めっちゃした〜い」
「公ちゃ〜ん妻が欲求不満だよ〜」
エマはずっとニヤニヤ顔でイジってくるけれど、が母を亡くして落ち込んでいる時も、元義父との生活で疲弊している時も、いつでも力になってくれる人だった。明るく元気で湿っぽいところがない。なので好きなだけイジらせておくし、頃合いを見計らって公延に紹介するつもりでいる。
「けど偉いよね、結婚した人に惚れてんのに受験するとか」
「え、なんでそれが偉いの」
「私レオン様と結婚したら大学とかどうでもいいわ。それより子作りに励む」
「まあそれはそうだろうね……」
エマは以前のの志望校の国際系の学科を目指しており、なのでほぼ同じ進路を希望していた。一方で彼女はレオン様とかいうポップスターに夢中で、ありとあらゆる持ち物にレオン様の顔がくっついている。公延より年上なのだそうだが、CGみたいな顔をしているので、比較になりそうもない。
「ま、この際初夜は置いといたとしても、ほんとになんもないの? ラッキースケベは?」
「そーいうの期待する気持ちはわからなくもないけど、ないんだなこれが……」
「距離が近くなってドキドキしちゃうとか、手が触れ合ってキュンとか」
「微妙にすれ違い生活っていうか、あんまりふたりで過ごしてないというか」
そもそも公延が母親に出した家の条件の中には「互いのプライベートを確保するための個室」があった。なので現在ふたりが暮らす家は2階に2部屋があり、そこがそれぞれの私室になっている。1階にはダイニングキッチン、リビング相当の一室、そして4畳半程度の小部屋がひとつで、3LDK。
その小部屋は現在パントリー兼納戸として使われていて、共用。それぞれの私室がきっちり6畳ずつで収納もないので、リビングの壁も共用の書棚で埋まっている。あとは当然キッチンやバスルームは共用なわけだが、それぞれに私室がある以上は、基本的にふたりともそこで過ごすことが多い。
実際にこの家を購入したのは公延だが、帰宅後にリビングを占拠して動かない、なんてことを彼はやらない。このリビングが使われるのは公延母や高梨夫婦が訪れた時くらいなもので、もしと話す必要がある時はキッチンやダイニングで立ち話、そうでなければ同じ家の中でもLINE。
「なんかシェアハウスみたいじゃん」
「実際そう」
「一緒にやることってないの?」
「うーん、だから買い出しとか、たまたまどっちも家にいた時は一緒にご飯食べるとか」
「えっご飯たまたま?」
「私も予備校とか塾とかで忙しいけど、先生もなかなか忙しくて」
既に高3であり、夏を勉強に集中出来なかった事情もあるので、は現在ほぼ毎日予備校か塾に通っており、高校から帰宅して少し休み、食事を取ったらどちらかへ行く、というパターンが多い。公延は夜間にが予備校やらで不在の間に帰宅し、が戻るまでに家事をやっている、というパターンが多い。
「その間で週末とかに時間作って買い出しとか、そういうのはあるけど」
「まじで……ふたりっきりになれる時間ないの……」
「あ、えーと、公ちゃんが帰ってればだけど、予備校とか終わったら迎え来てくれることは、ある……」
「おいなにそのキュン顔」
「車ん中で喋るのやばいの……公ちゃん話し方優しいからギュンギュン来んの……」
まだ暑いので車の窓を締め切ってエアコンを入れているせいもあるが、家よりも狭い空間で話す時間が今のところ唯一の「ふたりきり」と言えるかもしれない。週末は公延母や高梨夫婦が支援物資とともに顔を出すことも多いし、平日はとにかく時間が合わない。
なので車内でふたりきり、ほんの20分ほどの時間がとっては「ハイパー公ちゃん堪能タイム」であり、それはもう声のみならず、ハンドルを操る手やら、安全確認で伸ばした首の筋やらにうっとりしまくっている。夜間で暗い中であれば、よりかっこよさが際立つ。
「それに、やっぱりどこかで私を憐れんでるっぽいから、たまに甘えると効果が高い」
「え、なに甘えられんの?」
「別にスキンシップとかじゃないよ。ええと最初にやったのは、ドライブ」
「なんかもうその『ドライブ』って響きがエロい」
「なんでよ」
公延の夏季休暇が明け、ふたりはが夏休みの間に少しでも同居生活のリズムに慣れようとしていた。は出来るだけ登校時と同じ時間に起床し、自分が休みの場合の家事負担分をこなし、引っ越しなどで手がつけられなかった夏休みの課題などをやったりして過ごす。
8月の下旬に入ると塾と予備校が始まったので、さらにも忙しくなったわけだが、たまたま講座の都合で予備校を出るのが21時になったことがあった。遅くなったけど今から帰ります、という連絡を入れたに、公延は「迎えに行けるから近くのコンビニで待ってて」と返してきた。
既に公延との密室ドライブに味をしめていたのテンションは急上昇。しかも金曜の夜。スケジュール共有アプリを確認すると、明日の公延は休日。だから公延も迎えに行こうと思ったのだろうし、つまりこの夜は公ちゃん少し余裕ある! とは確信した。
なのでちょっと疲れた顔をして見せ、声も抑え気味に装った。すると公延はあっさりと引っかかり、まだ緊張が残ってるだろうから、休める時は休むことも大事だと気遣ってくれた。
「だから『ちょっと甘えてもいい?』って言ってみたんだわ」
「ほんほん、それでそれで」
「なんか別のこと考えたみたいで、私がカフェ行きたいって言ったら安心したのか、すぐOKしてくれて」
甘えるという言葉に一瞬とてつもない緊張が走ったらしい公延は、カフェ行きたいという実に健全なおねだりだったので、ふたつ返事で頷いてくれた。しかも店内ではなくドライブスルーで買い、走りながら車の中で飲みたいという申し出にも疑問は抱いていなかった様子。
「でもそれって車内でふたりっきりになるための策」
「そう。公ちゃん簡単に釣れた」
「策士め! てか的にはデートじゃん」
「そうなの! そうなのよ!」
実際のところふたりはコーヒーやフラッペドリンク片手に車内で喋っていただけなのだが、的には完全なふたりの世界。公ちゃんのジェントルボイス聴き放題、骨の浮き具合最高な手を眺め放題。
「さっき言ってたみたいに、確かに基本的には相性悪くない同士だと思うんだけど、だけど私たちは相手のことを知らな過ぎるし、とにかく雑談でいいから話をしなきゃって思ったんだよね。その頃は想像以上に公ちゃんとは時間が合わなくて、私が家にひとりってことがすごく多かったから」
公延の方には「ふたりの距離を縮めたい」という思いはなかったはずだ。なんなら彼は自分の方が大人だという感覚で、はまだまだ子供だという意識で、「注意すべきことは言うけれど、少しくらいの摩擦なら自分が我慢して引いてしまえばいい」と考えているはずだ。そうすればはいつでも独立できる。
しかしそんなことは断固拒否なのである。は名実ともに公延の妻になりたい。
「たぶん、たぶんだけどね、公ちゃんて、どこかでバスケ諦めきれてないんだと思うんだよね」
「プロ選手ってこと?」
「ていうより、競技活動、かな。今はもう趣味になるわけでしょ。所属してるチームがあるわけじゃないし」
「まあな……大人がそれをやりながら働くって現実的には無理がありすぎるよね」
「だから、進学したい、可能性にチャレンジしたいっていう私に同情的なんだと思う」
そもそも自分が思い描いていた海外での就職という夢は完全に絶たれたとは思っているのだが、公延は諦めるなとよく言う。それはいつどこで掴めるかわからない未来だし、必ずしも高学歴でなくても叶う夢なのだから、手放す必要はないと言われた。
だが一度は失ったと思っていた進学が叶いそうな状態なのだし、向こうにそのつもりがなくてもは現在結婚していて夫がいるという生活なのだし、海外への興味は驚くほど簡単に薄れた。海外でなくとも仕事を持ち、それと同時に公延との家庭に生き、そしていつか子供を作ることで本当の家族になりたかった。
母を亡くした今、にとっては海外で働くことよりも、もう一度家族を得る方が難しい問題だと思えた。大恋愛の末にいつか素敵なウェデング……なんていう憧れではなく、信頼できる人、安心できる家、帰りたいと思える場所、それらを再び手に入れることは、これから知り合う人では実現できる可能性は低いと思った。
公延はにこんな「転機」が訪れる前から優しい人だったし、それは母もお墨付きだったし、高梨夫婦との縁も含めての救い手だった。それと寄り添っていたいと思うことは、この親友のエマのような存在と長く親しくしたいと思うことに似ている気がした。
今のところの結婚に唯一反対をしたのは担任だった。彼は彼でを案ずるがゆえの、そして教師という職業に就くものとして譲れない考えだったのだろうから、自身それを不快には思っていない。
しかし「18歳で結婚なんて、早計なのでは、浅慮なのでは」と言いたげな彼の言葉には反発を覚えた。
大人だってスピード離婚したりする人はいる。私たちは新米でも大人だし、自分の人生は自分で選択していいという権利を与えられたのだから、この感情が今だけのものだったとしても、『これだから子供は』なんて言われる筋合いはない。まだ自分で責任を取れないというけれど、じゃあ全ての大人は自分の失敗に必ず責任を取ってるの? 大人だってすぐ親を頼ってるじゃん。うちの叔父なんか子育て丸投げ。
そんな思いを巡らせていたにとっては、同じ女性である副担任の「あなたは大人なのだから、その判断を支持します」という言葉が心強かった。自分自身で判断してよい、それが成人の大前提のはずだ。
私を案じるというのなら、私が自分で自分の道を選べるように導いてほしい。私が望みもしない道を示して「これが君のために人生の先輩が選んであげた最良の選択だよ」なんて言わないで。もし私がその道に躓いた時、あなたは絶対に責任を取らないのだから。それを信じた私がバカだと言うだけなのだから。
「パートナーがメンター、ってのも悪くないと思うけど、パワーバランス的にはどうなんだろね」
「現状それはしょうがないんじゃないのかな。向こうは実際に先生なんだし」
「そこだよな。公ちゃんはに対して常に先生目線」
「新学期始まってからはそれでも夜ご飯一緒なことも増えてきたんだけどね」
イレギュラーなタイムテーブルになりがちな夏休みと違い、新学期が始まってからはふたりとも決まった時間に決まったことをしている生活になってきた。なので朝晩は一緒に、という日が多くなっているのは事実。
「ん? あれ? 朝ってどうしてんの? 公ちゃん先に出るんじゃないの」
「そうなんだけど、事情を知ってる教頭が車通勤許可してくれたとかで、私も一緒に出てる」
「……めちゃくちゃ早くない?」
「朝から公ちゃんとドライブには変えられない」
「そっちかよ」
エマはまた楽しそうに笑う。確かに新学期が始まって以来、はそれまでよりも早く起きねばならなくなった。だが朝のひとときにはそれを我慢する価値のある楽しみがある。
「まずは、前の日に準備しておいたお弁当をふたりで作る」
「が全部作るんじゃなくて?」
「おかずは私がほとんど作ってるけど、詰めるのはそれぞれだし、飲み物とかの準備もふたりで」
「まあ身支度なんかも公ちゃんの方が時間かからなそうだしな」
「で、今度は朝ご飯をふたりで作る。おにぎりとちょっとしたおかず」
「なんかちょっとほっこりキュンな感じだな」
「まじでそれ」
「え、そうなの?」
「だってそれ車の中で食べるんだもん」
「うわ、かわい」
の進学後に合わせて新居を選んでしまった都合上、公延はそこそこ早朝に出発せねばならないし、も通学時間が増えてしまったし、人通りの多い時間帯に制服姿のが近所をうろつくリスクを考え、朝は一緒に出かけてを音羽東最寄りに向かう路線に送り届けてから出勤、というのが公延の日課になった。
その流れになったのは新学期になってからなので、まだ模索中というところだが、おにぎりかサンドイッチを車中で食べながらの朝のひとときは、エマの言うように緩やかなときめきをに感じさせていた。人通りの少ない住宅街を抜け、朝の透明な空気をフロントガラス越しに見つめながらついでに公延も眺める。
「てかそーよ、あんた例のバカにやらされて料理覚えたんだろうけど、公ちゃん褒めてくれる?」
「エマ……」
「えっ、なによ、なんかあんの」
「やばいの……」
「なにが」
「公ちゃんいつもおいしいって言ってくれるの……」
エマは大爆笑。深刻な顔をするから何かと思えば惚気かよ! 待ってたぜ!
「まあたぶん、子供扱いで褒めてやんなきゃって思ってるだけだと思うけど」
「でもないよりはいいじゃん。実際あんたのご飯うまいし。私実は唐揚げが大好物なんだよね」
「それは知らなかった〜」
「いや知ってるだろ作ってくれってアピールじゃん夫以外にもサービスしろ」
「じゃあ公ちゃんに紹介する時に作るわ」
実際にはまだ他人を招くほどの余裕はなく、エマが木暮家に足を踏み入れるのは先になるだろうが、はそれを思うと心が浮き立った。公ちゃんなんて言うかな、私の親友。もし公ちゃんが彼氏だったらエマのこと可愛いって思ったらどうしようって心配しちゃうけど、夫だからね。
それに、こんな日常のささやかな楽しみに心が浮き立って楽しみに感じる、そんなことすら夏休みの前には滅多に起こらないことだった。だから今に楽しみというものが存在するのは公延が結婚を決意してくれたからだと思えた。私の心がまた楽しいって感情を自覚できるのは、公ちゃんのおかげ。
それが子供扱いだったのだとしても、料理を褒められるのは嬉しかったし、体調への気遣いや、朝晩の挨拶ですら、は幸せを感じていた。今はまだ触れることの出来ない夫ではあるが、自分たちには長い時間がある。
日々の生活も受験もふたりの関係も、何もかもひとつずつ、焦らずにやっていこうと思った。