明けても暮れても

12

「昔はほら、学生結婚とかもあったでしょ」
「昔はね」
「子育てなら私が全面バックアップ! 何も心配いらない!」
「何も心配してないよ」
「ちょっと公延、据え膳食わぬは男の恥の意味わかってんでしょうね」
「武士は食わねど高楊枝」
「キーッ!」

公延の母親は歯を食いしばり本当に「キーッ!」と唸った。同居が2ヶ月を過ぎた息子夫婦に差し入れを持っていったら嫁がいなかったので、ダイニングテーブルで息子をちくちくと突っつき始めた。嫁が受験生ということは分かっているが、夫婦仲はちゃんと進展してるんでしょうね、と言ってみたのだが、馬耳東風。

「ていうかあんた今まで女の趣味悪かったじゃない」
「なんで知ってんだそんなこと。紹介したことなんかないはずだぞ」
「母親の地獄耳ナメないでくれる? だからね、ちゃんは史上最高の女でしょ」
「だとしても今受験生。そのあと4年間は学生。さらにそのあとは就職」
「何年待てばいいのよ〜!」

公延の父方のいとこは独身だし、キリエとシュウジも子供の予定はなし。なので彼女が人ん家の幼児を見ながら「孫ォォォ」と呻くのは当分続くことだろう。それについては議論の余地がないので息子は相手にしない。

「てかちゃん、推薦でよかったんじゃないの? 成績悪くなかったんでしょ」
「それはそうなんだけど、他に何も実績がなくて。部活とかもやってないし、2年生が全部潰れてるから」
「そうなのよね……あんたが高2の時なんかずーっと学校にいたっていうのに」
「そのぶん高3にしては家事が異様に上手いけど、それって別にいいことじゃないだろ」
「今そんなもの特技にもならないもんねえ……

公延の母が10代の頃ならいざしらず、現代で18歳が花嫁修業完了済みでも得になることは少ないと思われる。

……だから、結婚してるとか意識せずに日々を楽しんでほしいって思わないか」
「それはもちろん、そう思うけど……
「というわけで孫の幻想を追いかけるのはやめてください」
「あのね公延、そういうの甲斐性なしっていうのよ。ていうかあんた不能じゃないわよね?」
「気持ち悪いからやめてくれ!!!」

母親とそんな話をしたくない公延は仰け反り、「自分の周りにはろくな女がいない」と思った。母はこの通り、サクラ先生やキラリは迷惑、キリエは頼りになるが暴走する。それに比べるととは冷静な話が出来るし、母の言う「史上最高の女」は否定できないなと思った。

それを公延が天に感謝している頃、はエマと待ち合わせて昼食を取っていた。ふたりとも日曜なので朝から予備校、の窮状を知るエマの母親がお昼代をくれたとかで、ランチビュッフェに来ていた。

「うん、ふたりとも頭が固すぎんな?」
「だから合うんだと思う。私もなんか、すごくちゃんと自分の意見言えたし、エマのおかげ」
「お礼は唐揚げでいいよ」
「またそれか。親、作ってくれないの?」
「うちの唐揚げ好みじゃなくて」

言いつつエマの皿の上は唐揚げとフライドチキンと蒸し鶏が乗っている。鶏肉が好きらしい。は普段我慢しがちなスイーツを山盛り。公延が最近さらにアルコールを控えているので、もつい甘いものは遠慮してしまう。公延本人は「頭使うのに糖分は必要なんだから、適度に食べればいいのに」と言うが、それが余計に後ろめたい。なので今日は好きなだけ食う。エマのママ、遠慮なくゴチになります。

「ふうん、公ちゃん実はモテるんだね。あの優男感はわからなくもないけど」
「ああいうのもモテるって言うのかな……
「だって現在少なくとも3人から好意を寄せられてる」
「まあそうなんだけど」

は公延と仲直りをしたあとに、サクラ先生とキラリの話を聞かせてもらった。話すと言うより報告といった雰囲気だったけれど、それについて公延からはっきりと「ずっと迷惑に思っている、気持ちに応えるつもりは一切ない」と言ってもらえたので、の恋心は普通に燃え上がった。

だが、どちらも絶妙にストーカータイプで、そこは不安に思っていた。

「確かに。が女子高生だって知ったら、どっちも逆恨みして吹聴しそう」
「公ちゃんが怖がってるのもそこなんだと思う。今の職場と学生時代の関係全部だから」
「その、誰だっけ、そう、赤木さんたちみたいに理解を示してくれる人たちばかりじゃないもんなあ」

サクラ先生は職場が同じ、キラリに至っては自分の学生時代上下3学年ぶんくらいのネットワークに直結している。それだけの範囲に「高校教師になった木暮が女子高生と結婚したらしい」と言われてしまったら。

にはあんな酷い事情があったんだし、公ちゃんは普通にまともな大人なのにね」
……そう、エマが言ってたやつ、説教の話、あれ、公ちゃん大丈夫っぽい」
「え、まじで。私のこと話したの?」
「まさか! そうじゃなくて、たまに勉強で突っかかると頼るんだけど……

ちょっと気まずくなりはしたが、それ以前に受験生と現役の教師である。はわからないことがあるとすぐに公延に聞くようになっていた。だが、公延は家庭教師時代と違い、あまり丁寧に教えてはくれなかった。

「解説、説明、考え方の道筋を整えるとか、そういうことは教えてあげるけど、はもう高3で、さらに先の研究機関でもある大学でもっと高等な学問を修めに行くんだから、わからない答えは教えてもらうのではなく、もらうのはヒントまで、あとは自分で考えるようにしなければならない、って言い出して」

当然の心得のように聞こえるけれど、はその習慣や意識を育てるどころか、常に「疑問は持つな、命令に従え」という日々を1年間もやってしまったので、なかなか癖が抜けなかった。

「なんかこう、公ちゃんの主義とか、世の中のことについてとか、言わない?」
「うん、言わない。それも自分で考えて見つけるべきだって」

そもそも公延の方に「他者を自分の考えに染めたい」という欲求がないこともあるが、それでもをひとりの大人として認めて接しなければならない以上、公延がふたりの間に敷いた境界線でもあった。

それを聞いたエマは安心した様子で、ふたりはスイーツと鶏肉をたらふく食って店を出た。は18時まで、エマは限界まで予備校。同じ大学に行くという目標は絶たれたけれど、こんな風に息抜きを共に出来ると心身ともにリフレッシュする気がした。

今日は予備校が終わったら公ちゃんに連絡して、足りないものがあったらスーパーで買って帰って、久しぶりにふたりでご飯作って食べられる! エマのママがおいしいビュッフェをご馳走してくれたけれど、にとって公延との食事の時間は何よりの楽しみだった。

自分を苦しめるだけの元義父に怯えて仕方なく覚えた料理だったけれど、それを公延が喜んで食べ、褒めてくれると努力は無駄ではなかったと実感できる。元義父はの料理を喜んだことはないし、褒めたこともないし、言うとすれば批判くらいで、料理にいい思い出はなかった。けれどそれを公延が幸せに変えてくれた。

同居を開始したばかりの頃は日々の食事がふたりを繋ぐ日常だった。そこから少しずつ少しずつ家族になっていったような気がしている。そんな充足感に心が軽くなったは18時まで予備校で集中して勉強すると、足取りも軽く家路についた。

公延に連絡をすると、昼頃に姑が来て食材をまたあれこれと置いていってくれたらしい。なので今日の食事に足りないものはないが、明日の弁当に使うつもりだった昆布の佃煮がなかった、と返ってきた。昆布の佃煮はが生姜昆布、公延が葉唐昆布と好みが分かれてるので、2種常備されている。

は予備校の最寄り駅でスーパーに入り、昆布の佃煮を探す。地元駅のスーパーは惣菜や弁当は充実しているのだが、そのぶん定番商品などはラインナップが乏しい。この予備校最寄り駅のスーパーはかなりの大型なので、帰りに寄るならこっちの方が確実に手に入るはずだ。

母が亡くなるまではスーパーなんてお菓子やスイーツ、ペットボトルのコーナーくらいしか興味もなかったし必要もなかったのだが、すっかり全ての売り場に慣れてしまった。それを思うと少し切なくなるけれど、公延の好物だと思うと、違う意味で胸が軋んだ。

お義母さんが来たってことは果物がありそうだな。そのまま食べてもいいけど、今日の昼に食べたフルーツゼリー美味しかったから作ってみたいな。公ちゃんてゼリー好きかな? そんなことを考えるだけで胸が踊った。

だが、浮かれた足取りのは後ろから肩を叩かれて飛び上がった。

「え!?」
「そんなに驚かなくても。ってこの辺地元だったん?」

ヤマトだった。途端にの全身が粟立ち、慌てて一歩下がった。

「違、違うけど、そっちこそ」
「オレはバイト。地元はもうちょっと先」
「え、バイト?」
「そうバイト。おかしい?」
「いやあの、ほら、家が裕福みたいなこと言われてたから」
「ああまあね、それは間違いでもないけど、でも金が多くて困ることもないじゃん。週末は暇だし」

節約生活2年目のにはちょっと羨ましい話だ。見ればヤマトはずいぶん高価そうな新品の服やアクセサリーを身に纏っていて、全身余すところなく安物のはつい彼を凝視した。だがその体がぐっと近付くと、また肌がざわざわと粟立つ。

は何してたん? てかなにそれ、葉唐昆布って、そういうの好きなの?」

ヤマトからはやはり甘い匂いが漂ってくる。甘さを煮詰めて花の香りを足したような匂いで、嫌いな匂いではなかったけれど、おそらくヤマトの自然臭と混ざっていて、どこか不快な印象があった。は鼻に詰め物をしたい気持ちになりつつ、意識を集中させた。余計なことを漏らさないようにせねば。

「これは家族の。お弁当に使うやつ。私は生姜の方が好きなんだよね」
「いや結局それ系食べるんじゃん。渋いね」
「こういうの食べないの?」
「嫌いじゃないけど、わざわざ食べないんじゃね? てか弁当って自分で作ってんの?」
「あー、うん、基本的には」
「へえ、ってそういう人なんだ」
「そういう人?」

話の矛先がいきなり自分に向いたので、はついそう聞き返してしまった。するとヤマトは、

「就職クラスのくせに受験するとか言い出したからキャリア目指すタイプなのかと思ってたけど、家庭的じゃん、て。いいよね、料理できる女って。オレ、彼女にするなら料理上手い子って思ってるし」

それを聞いていたの肌は極限まで粟立ち、全身鳥肌。ついでに昆布の佃煮を持っていた手は冷たくなった。なんだこいつ、何言ってんの? 言ってること気持ち悪いんだけど、なんでそれ私に言うの?

「今度オレにも弁当作ってよ」
「なんで」
の手料理食べてみたい」
「だからなんで」
「いいじゃん、作ってよ。あのロビーで食べない? ふたりで」

これは、ヤマトは自分に好意があるんだろうか。はまったく理解できないながらも、それを疑い始めた。親しいわけでもなく、ろくに話したこともなく、気が合うわけでも同じ趣味があるわけでも共通の友人がいるわけでもないのに、弁当作れってなに?

……なんで私がそんな彼女みたいなことしなきゃいけないの?」
「別に彼女じゃなくたっていいじゃん。てか腹へらね? 奢るから飯行こうよ」

そう言いながらヤマトはの腕に触れた。は痛むほどの鳥肌にその腕を振り払った。

「そーいうの困る。弁当も作らないし私は帰る。もう絡んでこないで」
「え、ひど」
「ひどいのはそっち。あと私、好きな人いるから、その人以外の男とふたりで食事は絶対しない」
「え、固すぎない、そんなんじゃ将来社会に出た時困るよ?」

どれだけ拒絶をしても全て自分を被害者または善人に置き換える。このパターンは元義父と同じだ。さんざん無茶な要求をふっかけてくるのに被害者面。正当性のないことを言うためには善意を装う。

そしては思った。こいつ、手料理を褒めれば女が落ちると思ってるのかもしれない。女子力高いね、女の子ってやっぱりそこ大事だよね、なんて言えば頬を染め、女の歓びは男に尽くすことだと勘違いをする。

にとって料理は自身の安全のための努力の結果であり、それをいま喜びに変えられるのは公延が誠実な人間だからだ。結果的に元義父に厳しくされてよかったね、という問題ではない。不当に扱われたこととが努力したことは全くの別問題。の努力が称えられこそすれ、その原因まで評価されるべきではない。

なのでそれを女子力なんていう言葉で括られるのは、不愉快なだけだ。私はやりたくて料理してたわけじゃない。楽しく学んで覚えたスキルじゃない。怒鳴られないように怯えながら必死で習得しただけ。それは公ちゃんのためなら喜んで活かすけど、お前にはその価値がない!

「そういう忠告もいらない。私、あんたと仲良くするつもりないから」
「冷た〜」
「私たちはただのクラスメイト、それ以上の付き合いは断る。以上!」

もう返事は待たなかった。待てばを加害者に仕立てる言葉が出てくるだけだし、今日は大好きな夫とふたりで楽しく料理をして幸せに食事が出来る日なのだ。それをこんな不愉快な人物のせいで台無しにしたくない。は早足でセルフレジに向かうと、急いで会計を済ませて店を出た。

出来るだけイライラを吹き飛ばしたくて、家まで早足を続けた。すっかり慣れた道のりは日が落ちて暗かったけれど、街灯と家々の明かりが公延の待つ家まで付き添ってくれているような気がした。公ちゃんのいるところに帰れば大丈夫、公ちゃんとふたりであの家にいれば何も怖いことはない。

急いで玄関に飛び込むと、それこそ昭和の建物であるこの家はすぐ目の前がダイニングキッチンである。するとそこにはだらりとしたスウェット姿の公延が味噌を片手にして立っていた。パントリーから買い置きの味噌を持ってきたらしい。普段通りの公延は「おー、おかえりー」などと言っている。

床にリュックを下ろしたはそのまま公延に駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。

「んぇ!? なに!?」
……ナンパされた」
「え」

嘘ではないと思った。街中で偶然、声をかけられて食事に誘われた。それが現在同じクラスのヤマトであっても、見ず知らずの誰かであっても、迷惑で不快なのは同じな気がした。

「どこで、なにかされなかったか、平気か」
「予備校の最寄り駅。ちゃんと断ったから大丈夫だけど、すっごい腹立ってる」
……そうだよな」

大いに慌てていた公延だったが、の低い声に背中をそっと撫でる。

「昼はエマと一緒だったし、夜は久しぶりに公ちゃんとご飯一緒だって楽しみにしてたのに、最悪」

今は高校生らしい青春なんかより、それらが自分を一番幸せにしてくれる。はそれを再確認したし、抱きつかれて困り顔の公延もの怒りと幸福の意味がよくわかった。あの恐ろしい1年の間に失って二度と手に入らないと思っていた日常の幸せ、それがにとっては宝物にも等しいのだと。

……よし、じゃあ今日は美味いご飯を作って、食べて、それからドライブしようか」
「公ちゃん……
「てかまだ19時だし、が疲れてなければ映画でもいいよ。レイトショー」
……ううん、ドライブとカフェがいい。いいの?」
「嫌な気持ちはいつまでも持ってる必要、ないだろ」
「公ちゃん……!」

公延が困り顔になっているのはわかっているが、はことさらにぎゅっと彼の体を抱きしめた。公ちゃんはいつでも何だかいい匂い。ほんのり洗剤やシャンプーの匂いがするだけで、いつでも優しくて安心できる香りを放っている。それを目一杯吸い込む。

そして困り顔の公延は、背中を撫でていた手を止め、ほんの僅かな間、その両腕でを抱き締めた。

公ちゃんとドライブという甘美な餌にの気持ちはすっかり上向き、ふたりでさっさと簡単な食事を作って片付け、明日の弁当の準備も済ませると、ラフな服装のまま車に飛び乗った。ドライブスルーのあるカフェに立ち寄り、混雑の少ないルートをひとまわりすると1時間くらいだろうか。

そこから帰宅して交代で風呂に入ったりしても日付が変わるまでには床につける。不快な思いはしたけれど、それを除けばにとってはしばらくぶりに「最高の日曜日」だった。エマも公延も大好きだ。

だが、そんな浮かれたが車に乗り込むのを、物陰からじっと見つめている影があった。

華やかで夢のような愛らしい香りが静かな住宅街に漂う。

「あんなのの、どこがいいの……!?」

思わず絞り出した声、街灯のスポットライトにサクラ先生の姿がぼんやりと光っていた。