実父の二度目の離婚の原因は、妻の不貞と、それにより妊娠中の妻の腹の子の父親が浮気相手の疑いがあったから、だったらしい。二度目の妻とはと公延より年の差があり、サヨとの離婚後わずか1年半での結婚だった。実父の家・樫井家では若い嫁は歓迎され、最初は上手くいっていたらしい。
「一応上の子は父の子だったらしいんだけど」
「DNA鑑定したのか」
「でも出産前に出ていったってことは、次の子は浮気相手との子なんだろうねえ……」
に相談を受けた高梨夫婦がやって来たのは、公延が困りきった顔をして帰宅した翌日曜日のことだった。公延は研修で不在、しょんぼりしたと高梨夫婦はこたつで背中を丸めていた。
「別にまた若い女引っ掛ければいいのにねえ」
「父も50過ぎてるし、厳しいんじゃないのかな」
「そうかなあ。そういう男に引っかかる女ってまだまだ多い気がするけど」
「あいつの方がそれじゃ嫌なんじゃないかな。すごい高望みするタイプだったらしいし」
「だから今度は娘? キモすぎんだけど」
遠慮なく吐き捨てるキリエには体の真ん中の痛みが和らぐ気がした。複雑な家庭環境を抱えるにとって、安定した家庭に暮らす人々とは家族というものの価値や概念が全く異なっているのだが、それを言葉にしてしまうと非難されることが多い。なのでキリエの遠慮のない罵倒が気持ちを宥めてくれる。
「それで、叔父さんたち……公ちゃんの親はなんて言ってるの」
「今朝電話で謝ったんだけど、とりあえずお義父さんは気にしなくていいって」
「え、叔母さんは違うの?」
「公ちゃんいわく、めちゃくちゃビビっちゃってて冷静ではないらしい」
「なんだよ効果出ちゃってんじゃん! 姑しっかりしろよ〜!」
「……公ちゃんの実家だけで話が済めばいいんだけど」
お茶を啜るシュウジの潜めた声に、とキリエは揃ってこたつに額を打ち付けた。
「まあまさか、のおじいちゃんの家には行かないと思うけど……」
「……えっ、じゃあ次はウチ!?」
「ダイキさんについては詳しくないはずだけど、木暮家から辿るとウチも近いからね」
「ていうかこの家は? 知られてないよね?」
「一応。ただ、マヤちゃんがちょっと、やらかしてる可能性はなくもない」
「あー!!!」
マヤはのんびりした性格と度重なる体調不良が故か、他人への警戒が緩く、人に出し抜かれるとか誘導尋問に引っかかるなどはやらかしがち。去年の夏も既にキレている元義父とをふたりにしてしまったり、危機感もないし、読みも甘い。なので兄がの暮らしについてのヒントを得ている可能性はある。
自身、住民票には閲覧制限をかけているが、もし興信所などで調査されれば現況を全て把握されてしまうだろう。配偶者へのDVなどと違い、実際にへの暴力や違法行為がないばかりか、血の繋がった親子であることが不利に働き、実父と関わりたくないというの訴えは軽視される可能性が高い。
「そっか、嫌がらせのどこかでマジで違法行為が発生すればその限りではないだろうけど」
「今のところ『娘と家族に戻りたいんです!』って言ってるだけだからね」
「娘を食い物にしたいの間違いだろ」
「しかもはまだ18。実父の記憶は小学校低学年まで。信用されない」
「それもおかしくない!? 身近な親族にいっぱい証言者がいるのに! ひとりなんか妹だよ!?」
「みんな親の愛ってのは無条件で神聖視するからね〜」
高梨夫婦の会話を聞きつつ、は腕を組んだ。そういう「子は親に隷属すべき」という考え方が結局、元義父をあそこまで増長させたのではなかったのか。育ててもらった恩とはよく言ったものだが、父に育ててもらった記憶はないし、一緒に暮らしていた数年の間も、父親としての義務を果たしていたかどうかは怪しい。
実は母サヨと実父がなぜ離婚したのかの決定的な理由については、本人から聞く機会がなかった。周囲の人々も「ずっと夫婦仲が悪かった」「あなたのお父さんは家族に興味がなかった」なんていう表現で片付けてしまうことも多くて、ふたりの間に何があったのかは今のところ不明だ。
だが以前それをキリエは「マヤさんは知ってるはずでしょ。でも詳しく言わないってことは、言えないような理由だったんだろうね」と言った。そんな話をした当時でもはまだ高校生になったばかり。聞かせたくない内容だったのかもしれない。けれどそれが今は裏目に出た。これはきちんと聞いておくべきなのかもしれない。
と、つい考えを言ってしまっただったが、目の前にいるのがキリエだということを忘れていた。
「もしも〜し! マヤさん久しぶり〜!」
「わ、お、お久しぶりです」
「どうですか、体調は」
「毎年春は特にキツいんです……」
本人の言う通り、マヤは心なしかやつれたようにも見える。休日はとにかく休んで体力を温存しなければならないマヤなので、ビデオ通話に出ることは可能だったが、サヨとの実父・モトヒロの離婚の原因についてを聞かれると、ウッと胸元を押さえて俯いてしまった。
「ごめんマヤさん、でも少しでも情報がほしいの」
「いいの、私のことは気にしないで。ただその、本人にはあまり……」
「……ねえマヤさん、はもう大人だよ。それはが決めるべきだと思う」
「……でも、聞いてがつらい思いをするのは」
「それってもうつらい話だって言っちゃってるじゃないですか」
とシュウジは敢えて黙っている。マヤにとって親しく出来る家族はおそらくだけなので、愛情が目を曇らせているのだろうが、今はそれがのこれからを守ることになるかもしれない。ゆっくりとキリエに諭されたマヤは、余計に疲れた顔をしてぼそぼそと喋りだした。
「兄は、に興味がなかったの。というか元々他人にそれほど興味がなかった。彼女もずっといなかった。でもそれは恋愛に興味がないとかモテないからじゃなくて、ひとりに縛られるのが嫌だったみたいなの。だからその、ね、せ、セフレみたいな関係の人ばかりで。なのにある日突然サヨさんを連れてきたから、私は兄が心を入れ替えたのだと思って、ものすごく嬉しかったの。サヨさんはおしゃれで美人で、普段着でも輝いてた」
当時のマヤはふたりの馴れ初めを「共通の友人がいて」とだけ聞かされていた。家と樫井家の親たちは何の疑いもなくふたりの結婚を認め、サヨは樫井家に嫁ぎ、結婚から2年で妊娠、を出産した。
「でも、30も過ぎた人間が、変わるわけなかった。人はいつでも変われるっていうけど、変わったように振る舞うようになるだけで、中身はそんなに簡単に変わらない。子供のいる家庭ってものが思った以上に面白くなかったんだと思う。兄は、サヨさんが気に入らないことをしたり、言ったりすると――」
マヤの声が揺らぎ、ほつれた髪を耳に掛けながら彼女は上を向いて洟を啜った。
「マヤちゃん、私大丈夫だから、教えて」
「……兄は、言うことを聞かなければ、を傷付けるって、脅したの」
「……でも実際には何もしてないんですね? ただそうやって脅し続けた」
シュウジの言葉にマヤは何度も頷き、指先で目頭を押さえた。
「それを後で聞いた時、本当にショックだった。だってそれは、私が小さな頃に何度もやられたことだったの。いつも機嫌次第で決まったパターンなんかなくて、その時の気分で気に入らないことがあると、私の大事なものを壊すと何度も脅された。本当に私の大事なものを手に取って、壊そうとしたりするから、私は言うことを聞くしかなかった。でもそれがきっと、兄をあんな人間に育ててしまったんだと思う。そういう風に脅せば人は言うことを聞くと覚えさせたのは、私なの」
マヤとモトヒロは、当時としては年の離れた兄妹である。幼いマヤが年の離れた体の大きな兄に逆らえるはずもなかっただろう。そしてモトヒロはサヨにも同じ手を使い、今またにもその刃を振り下ろそうとしている。最近離婚したという妻はどうだったのだろう。
「どうかな、彼女はけっこう気が強い人だったから」
「えっ、2番目の奥さん気が強い人だったの? サヨさんやマヤさんとは違う?」
「たぶん。私たちの前でも兄に向かって文句とか、言う人だったから」
「ふぅん、そっか……」
聞きたいことは終わってしまったので、キリエは休んでくれと言ってさっさと通話を終えた。
「どしたのキリちゃん」
「うん、ちょっと意外だった。2番目の奥さんが強気な人だったって」
「意外? でも別にサヨさんだって気弱ってわけでも」
「そうなんだけど、今ちょっとピンと来た仮説が正しければ、反撃のチャンスはあると思って」
こういう時のキリエの勘は軽視できないし、彼女は最短距離で答えを見つけ出すことに長けている。ただそれはいつも本当に最短で直線なので障害物にブチ当たらなければならないというのが問題なだけで。なのでとシュウジは背中を丸めたまま、首を突き出した。
「今の話だけ聞くと、そのモトヒロさんて、実はものすごく気が弱い人なんじゃない?」
どこをどう通ったらそこに辿り着くのかわからなくて、とシュウジは突き出した首を傾げた。
「ポイントはいくつかあるの。固定の相手いらないのにサヨさんと結婚した、おそらく望んでないのに子供を作った、脅しの常習犯だけど実行はしない、娘を脅しのネタに使ったけど離婚をした、再婚相手は強気、そしてその再婚相手に浮気されて2度目の離婚」
いやだからそれマヤちゃんの話の要約……という顔をしたに、キリエはビシッと指を指す。
「つまり! モトヒロさんて人は、人から強く出られると押し切られる性格なんじゃない?」
「娘を使って脅す人が?」
「そう。そうやって人質がないと強く出られないから!」
「そうなのかなあ〜……」
「きっと結婚はサヨさんの方が強く迫ったんだと思う。子供もそう」
キリエの思考はいつでも飛躍しているように聞こえるけれど、その中に真実が隠されていることが多い。とシュウジは眉間にシワを寄せつつ、ひとつの可能性として受け取ろうと考えていた。なのでつまり、
「そう、もしこの仮説が正しければ、と公ちゃんが脅しに揺らぐことなく自分たちの意志を貫き通せば、あるいはきちんと彼に拒絶を示せば、それ以上は手出しができないかもしれない、ってこと」
モトヒロ気弱説はキリエの勘という不確かななものだが、現時点ではそれさえ希望の光だった。だが、この日研修に行っていた公延は帰りがやけに遅く、既に高梨夫婦は帰ったあとで、しかもまた困った顔をしていた。
「あんまりいい話じゃなさそうだね」
「うん。実家、行ってきた」
「研修って嘘だったの」
「まさか。帰りに立ち寄っただけ」
本日スーツでお出かけだった公延はジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろし、飲み残しのペットボトルのお茶を一気に流し込み、はーっと長く息を吐いた。
「そりゃもちろん今すぐ離婚しろとか言われたわけではないんだけど」
「でも血の繋がった父親だから、向こうの言い分は間違ってないって言うんでしょ」
「ま、そんなところ」
そもそも樫井家はの祖父に当たる人物が高収入な仕事に就いていたので、貰った嫁であるの祖母も同クラスの家のお嬢様であり、今でも家は古いがちょっとした豪邸。離婚したばかりのモトヒロはその家に戻っているらしいのだが、いずれは自分のものになる家だし、遺産はたっぷり、どうせならマヤも呼び寄せてみんなで暮らそうと考えているそうな。
そういう事情だから、の学費生活費の負担はもちろんのこと、アルバイトの必要もないし、「離れ離れになって長い家族」には遠慮があるだろうから、部屋にバスルームを付けてもいい、大学も改めて元の志望校を受験し直したらいいんじゃないかとも言っていたとか。
「父さんは正直呆れた、無茶苦茶だって言ってた」
「それが普通だと思う」
「でも、それを早口でまくし立てられると、ところどころ異常だってことに気付かないんだよな」
「お義母さんがそういう状態なわけね」
「まあ、それほど真剣に信じてないみたいだったけど、自分たちは実の親には逆らえないんじゃないかって」
人はどれだけ歳を重ねても、「親同士」になった瞬間、子供らが大人だということを忘れ、自分たちが対処する問題のように錯覚していく。義母は今まさにその状態に陥っていて、息子夫婦が自分たちの意志で立ち向かわねばならない問題だという感覚を失っているようだ。
もとよりがまだ10代ということも影響しているだろう。これが息子と同い年の社会人であれば、夫と同じように呆れるだけで済んだはずだ。
は一応マヤの告白と「キリエ説」を説明する。
「……そうか、なるほどな」
「どう思う?」
「キリちゃんの勘てバカに出来ないからなあ」
「お母さん自分のことはあんまり話さないままだったから、私はよく知らなくて」
「でも、のおじいちゃんたちの話とはそれほどズレがない」
「それもそうなんだよね……」
ただの記憶の中の母は父に食って掛かるような人物ではなく、それは再婚後も同じで、キリエの説には完全に頷けないところがある。
「父親や父方の家族の記憶って本当にないのか」
「ほとんどない、かな。お酒飲んで怒鳴ったりしてた記憶はあるよ」
「そういうのって変わらない気がするんだよな。再婚相手には一切出さなかったってのもちょっと……」
「私はその記憶のせいでお酒と暴言が離婚の原因かと思ってたんだけど」
「そういうのも、もしかしたら事実とは異なるのかもしれないな」
「それに、もっと引っかかってることがあるの」
「どうした」
「おじいちゃんとおばあちゃん。私と暮らしたいはずがないと思う」
記憶の中の祖父母はいつでも不機嫌そうな顔をしている。母は「私のことが好きじゃない」と評し、マヤも「お兄ちゃんのお嫁さんは自分たちが見つける気でいたらしい」と言っていた。誕生日プレゼントを貰ったような記憶はあるけれど、本人たちからの手渡しではなかったし、とにかく笑顔の記憶がない。
「私は孫っていうより『サヨの子供』だっただろうし、その意味でもモトヒロの主張には違和感がある」
「進学が難しいって話のときも支援はしないって言ってたもんな」
「マヤちゃんも呼び寄せて、なんてもっと信じられないよ」
「それもそうなんだよな……」
モトヒロの主張が荒唐無稽なのはもちろんだが、それが結局樫井の家で全員で暮らすという着地自体が怪しい。そこに罠があるというよりは、祖父母はモトヒロの行動を把握していないのではと思えてくる。おそらくマヤはそれを確かめてはいないだろう。そういう意味でマヤは気が利かない。
とはいえ、現時点でこちらから反撃を試みるのは時期尚早であるというのは、と公延だけでなく、高梨夫婦も同意見だった。樫井家の動向を監視し先を読む必要はあるだろうが、今はまだ時期ではないように思える。なので、高梨夫婦が帰宅してからが考えることはひとつだけだった。
「……公ちゃんはどう思う?」
ネクタイを解き、シャツの胸元を開いている公延はしかし何も言わず、前髪に指を差し入れるばかり。
の胸がギリギリと痛む。その無言はつまり、「離婚回避のために一緒に頑張ろう」という意志のなさにしか思えないからだ。モトヒロの無茶苦茶な主張に対し「自分も呆れる」と言ってくれない。
だが、それをどこかで予測してしまっていたことが、の胸を余計に痛ませた。
公ちゃんは最初からこの結婚のことを「暫定的な回避策」と言っていた。結婚とは思わない、制度の利用、いつか関係解消すればいい。それを毎日少しずつ変えていけたらって思ってた。少しずつでも上手くいってると思ってた。たった5回だけどキスもしたのに。
そう思ってたのは私だけで、公ちゃんにとっては「キスくらい大したことない」だったのかもしれない。
「公ちゃんは、どうしたいって、思ってる?」
ちょっとでも気を抜いたら泣いてしまいそうだった。でも聞かずにいられなかった。
前髪に指を差し入れてばかりだった公延はやがて、静かにため息をついた。そして、
「……お前の幸せを、一番に考えたい」
そう言っての顔も見ずにリビングを出ていってしまった。
公延が階段を登り、私室のドアが閉じる音がした瞬間、は口元を覆って嗚咽を漏らした。
私の幸せは私が決める。そう叫びたかった。
私はまだ18歳かもしれない、成人して1年も経たない駆け出しの大人かもしれない、だけどそれでもこれは私の人生であって、進学も、結婚も、全て自分で望んだこと。誰かに用意してもらった安心安全な保育器なんかじゃない。後で失敗しても、後悔しても、そこから何かを学び取って立ち上がればいいだけのことなのに。
私の幸せは自分の将来への可能性に挑むこと。
私の幸せはエマやキリちゃんやシュウジくんマヤちゃんたちと仲良しでいられること。
私の幸せは、この家で誰よりも大好きな夫とふたりで、暮らしていくこと。
それが私の幸せ。私以外の誰かがそれを決めるのは許さない。