1日中揚げ物をしていた1月3日が終わると、は休む間もなく予備校に戻った。相変わらず安定した学力を保っていたけれど、迫る本番に緊張と不安が募る一方で、は疲れを感じるようになっていた。
そういう精神状態に覚えがある公延は、食事に気を使ったり効率よく休むなどの指導を頻繁にするようになっていた。学力が問題なくても試験本番で実力を出しきれなくて失敗してしまう例は後を絶たない。には浪人という選択肢がないこともプレッシャーだった。
そんな中、世は成人の日を迎えていた。受験なのに祝い事なんかしてられるか、というケースも多く、ご多分に漏れずも成人の日のあれこれはオールキャンセルになっていた。
一応サヨの成人式の時の着物があるのだが、それを着付けて写真を取って式典に出かけて遊んでくる、なんていう余裕はまったくなく、の祖父母やマヤとも協議の結果、受験が終わったら改めて席を設けることにして、着物はいずれ写真だけ、という予定になっていた。
今のところ一番親しいの友人はエマで、彼女も成人式はキャンセル、1月3日の唐揚げを最後に「受験デスロード」に突入だとして、何の脈絡もなく送られてくる「レオン様尊い」を連呼するメッセージやスタンプもぱったり途絶えた。
なので成人の日もは朝から予備校のはずだったのだが、真っ青な顔で起きてきたので、公延は慌ててソファに座らせた。冷凍庫に閉じ込められていたのかと思うほど手が冷たく、肌は血管が透けそうなほど白く、唇も色を失っていた。風邪ではなさそうだが、体調不良には違いない。
「どこか痛いとか、つらいとかあるか?」
「ご、ごめん、生理……」
「え」
相変わらず生理に不慣れな公延はつい身を引いてしまった。恐る恐るネット検索で生理のことを学ぼうとしたのだが、理解出来たのか出来なかったのか、よく分からない。人体の生理機能としての理屈は分かったけれど、かといってそれが実際に生理をやっている女性たちの理解になるとも思えなかった。
それには生理中でもそこそこ普段と変わらずに生活していたので、いわゆる「軽い」体質なのかと思っていた。それがこんなに真っ白で冷たくなってしまうなんて、と公延は一瞬で焦り、冷や汗が出てきた。
「で、でもこんな具合悪いんじゃ、お腹痛くないか」
「うん、今回はけっこう痛い……」
「え、痛い? えっと、じゃあ、えーと、薬か? いつも飲んでる?」
「あんまり……でもこれは飲まないとだめかもしれない……いた、いたたたた」
痛みの波が来たのか、はおろおろしている公延の手に掴まり、それを強い力で握り締めながらうずくまった。痛いと言う声は掠れていて、手は少し震えていた。公延も余計に焦る。
「薬ってなんだっけ、痛み止めだっけ、専用のとかあるんだっけ」
「い、痛み止めで大丈夫、薬箱に、入れてある」
「わ、わかった、持ってくる」
「ごめん、ぬるいお湯がほしい……!」
「ま、待ってろ、今持ってくるから!」
普段より強い痛みで余裕がないに、生理でそんな状態の女性を見たことがなくて狼狽える公延は慌てて指示通りのものを揃えた。だが、痛み止めが効くまではどんなに早くても30分はかかる。ひとまず痛みで呻き続けるにブランケットをかけると、公延はダッシュで部屋に戻り、キリエに電話をかけた。助けて!
しかしキリエは「は子供じゃないんだから、本人の言う通りに手助けしてやればいいだけ」と突き放し、どうしたらいいかの教えを請いたかった公延は何も教えてもらえず、すごすごとリビングに戻った。
パントリーに積んである来客用の寝具セットから肌掛け毛布を引っ張り出してまたにかけ、うずくまって呻くの腰のあたりをそっと擦ってみた。生理痛って確か下っ腹のあたりが痛いんだよな……?
「ごめん、ありがと」
「気にしなくていいって。今日は予備校無理じゃないか?」
「……でも」
「家でも勉強できないことはないだろ。出来そうならオレも見てあげるし」
「大丈夫かな」
「そういう不安やストレスが響いてるのかもしれないぞ。この家は寒いし」
は何度も頷いている。まったく休みにならなかった年末年始に、慣れない一戸建ての真冬の寒さ、そして受験のストレス。それらのせいで症状が激しくなってしまったのかもしれない。
「もし痛み止めを飲んでも効果がないとか、異常な状態が長く続いたら病院連れてくからな」
「うん、わかった、ありがと」
「あと食欲ないだろうけど、食べられそうになったら言って。足りないものがあれば買ってくるから」
「うう、公ちゃん優しい」
「な、なんだよそれ」
「今日はもう公ちゃんに甘える」
「……いいよ、こんな時くらい」
公延は笑いながらの頭を撫で、ひとまず自分の朝食を作って食べた。それを片付けていると、薬が効いたらしいは痛みを感じなくなっていた。しかし、痛みに悶えていて疲れたはソファで毛布にくるまって横になっている。
「どうだ、何か食べるか?」
「まだいらないかな。あとでブランチくらいで大丈夫そう」
「何がいい?」
「公ちゃんのおにぎりと、お味噌汁と、卵焼き」
「も地味な口になってきたなあ」
「公ちゃんのせいだよ」
しかしそもそも公延が和食ばかり食べたがるようになったのはのせいである。ふたりは長閑に笑い合ったけれど、の顔色は相変わらず青白い。1月も半ばの本番直前に勉強を休むなど不安を加速させるだけかもしれないが、こんな状態で机に向かったところで不調を悪化させるだけかもしれない。
「その、オレは詳しいこととかわからないけど、サプリとか、緩和させるものが必要なら」
「……そうなんだよね。このまま行くと試験の前後に生理かもしれなくて」
「もし相談するならうちの母親か、マヤさんか、キリちゃんか……」
「こーいう時母親がいないのって困るよね」
「……そうだよな」
「……あ、いや違、そういう意味じゃなくて」
「わかってるよ」
公延の神妙な顔つきに「役立たずみたいに言ってしまった」と思ったは急いで否定したが、公延の方はこんな時に一番頼れるはずの母親を既に失っているに改めて憐憫の情を感じていた。しかも身近に気軽に頼れる女性がいないと来ている。
「大丈夫、公ちゃんが生理のこと詳しい方が気持ち悪いよ」
「それはそうだけど」
母親は隠す主義だったし、元カノたちはそこまで親密な関係ではなかった上に、今のよりは自己管理に慣れた大人だった。公延が生理のを気遣いきれないのは不可抗力ではあるのだが、離婚を選択しない限り半永久的に彼女とは一緒に暮らすわけだし、そうなれば閉経するまでこれに付き合っていかねばならない。誰でもやってることだからと我関せずで済ませたくなかった。
「でもつらいことには変わりないんだから、何でも言いなよ」
「ほんとに〜?」
「で、出来る範囲で、お願いします」
「じゃあ、ぎゅーしてもらおうかな」
「ぎゅー?」
青白い顔でニタリと笑ったに、公延は一瞬意味がわからなくてポカンとしていた。ぎゅーってハグのことか? だが、は公延の腕を引いて隣に座らせ、自分の方に向き直させると、足の間に座ってぺたりとくっついた。寄りかかっていられるし抱きつけるしのベスポジ。
「体冷えてるし、なんだか異様にダルいし、ちょっと甘えさせて」
「……わかった」
「いいの?」
「……うん」
「ダメって言われるかと思った」
「……ダメな、理由がない、だろ」
毛布を巻き直し、ブランケットもきっちり掛け直した公延は、ぐったりと寄りかかっているの体を両腕でくるみ込み、そしてゆっくりと背中を擦った。肩に触れるの頭は確かにぬくもりがなくて、公延の体に回している手は相変わらず冷たかった。
「……公ちゃん、受験の時、緊張しなかった?」
「うーん、オレそういうのあんまりないらしいんだよな」
「バスケの試合も?」
「そう。緊張感はあるんだけど、だからといって特に変化はないというか」
「ずるい〜」
得な性格には違いない。公延は笑った。そういえばインターハイの試合の前夜も普通にぐっすり寝てたなオレ。
「失敗したらどうしようとか思わないの?」
「それはあるんだけど、いざ当日になっちゃうと足掻いても無駄だし」
「公ちゃんて変なところでドライだよね……」
「よく言われる」
勢い、公延は自身が高校3年生だったころの記憶に飛び込んだ。これまでの人生で最も激動の1年間だった。と結婚してしまった去年も激変の年だったけれど、18歳のあの1年間とは比較にならなかった。何もかもが鮮明な記憶で、肌の感覚、匂い、温度すら全身に焼き付いている。
「緊張というか、焦ることはあるよ。状況をどうにかしたくて気持ちが先走ったりして」
「今みたいに?」
「しょうがないだろ〜」
も笑った。確かに公延はいつでも落ち着いていて、柔軟な判断もできるし、一見生きるのが上手なタイプに見える。けれど場のコントロールを失いそうになると、途端に焦りだす。
「……大丈夫、合格できるよ」
「……そんなのわかんないよ」
「オレも後がなかったんだよ、受験」
「えっ、浪人だめだったの?」
意外に感じるあまり、は体を起こして公延の顔をまじまじと見つめた。公延の実家である木暮家は一般的な一戸建てであり、豪邸ではないけれど修繕すら出来ないようなボロ家でもなかった。家の中も同様。息子に浪人させる余裕なんかない、という経済状況のお宅には見えなかった。
「この間、父親が言ってただろ。高3の時、進路で揉めたって」
「親と揉めるって時点で公ちゃんのイメージじゃないなとは思ってたけど」
「まあ、揉めたって言っても喧嘩じゃないし、怒鳴り合ったりとかはしなかったけど」
18歳の公延はバスケットを中心に進学先を選んだ。そして自宅から通うのではなく、ひとり暮らしをしたがった。親ふたりはそれを反対した。反対したというか、そこまでする必要がないとしか思えなかった。
「インターハイには出たけど、別にオレは出ずっぱりの主力選手じゃなかったし、個人の能力で言えば後輩たちにも遠く及ばなかった。だからバスケットを続けることは、その時点で既に『趣味』になりかけてたんだ。なのにバスケで進路を選んでひとり暮らしをさせろって言ったんだから、そりゃ親も面食らうよな。だから、自分の希望を押し通したいなら絶対一発で合格しろ、不合格だったら全て反故って条件で」
最近になってやっとその親のショックを理解できるようになってきた公延だが、18歳の彼にはまだ人生は「坂の途中」だった。登りきってもいないし、てっぺんからの景色は見えもしないし、てっぺんに何があるのかのイメージも湧かない。ただその坂を登る道すがらにはバスケットがなければならなかった。
それほどにバスケットが好きだということを自覚したのは15歳の中学引退試合のことだった。試合に負けるのは初めてではなかったけれど、この負け試合を最後にバスケットから離れるなんて、絶対に嫌だと思った。そうして担任や親を苦笑いさせながら、成績に見合わないかなりレベルの低い高校に入った。
「絶対にインターハイに行ける、優勝できる、ってなぜか信じてた。自分たちなら勝てるって、理由もなく思ってた。だけど……県予選の頃かな、ここで負けたら引退しなきゃならないってことを思い出して、もし、もしも予選を突破できなかったら、高校最後のインターハイに出られなかったら、今度こそ自分はバスケット競技を終わりにしなきゃいけないのかもしれない、と思った」
それを現実にしてなるものかと思えばこそ練習にも力が入ったし、苦しくてもしんどくても、それらは全て自分を競技バスケットから引き離さないための唯一絶対の方法だった。
公延は少し顔を近付け、いたずらっぽく目を細める。
「この話、したっけ。インターハイのかかった試合、オレのシュートが勝利を決めたんだよ」
「え……聞いてない……そんなすごかったの公ちゃん」
「誰か録画持ってなかったかな、見せたいな、たぶんオレの人生で一番かっこいい瞬間だったよ」
公延がインターハイに出場したことは聞いていたし、全国制覇が夢だったことも聞いたけれど、そこまで詳しくは聞いていなかった。高校2年生の1年間を召使いで過ごしてしまったに運動部の話は遠かったけれど、まさか公延がそこまでの選手だったとは思っていなかった。
それにこの結婚の話が浮上した去年の前半頃といえば、公延はようやく競技バスケットというものへの未練から解放され始めた時期で、家庭教師をしてもらっていた時以上にバスケットのイメージのない人物になりつつあった。それは一緒に暮らしてきたには顕著で、公延を見ても「バスケ選手だった人」という印象はなかった。だというのに、そんな話を聞いてしまうと突然バスケットマンに見えてきてしまう。
「こんな典型的な前髪メガネだし、背は高いけど、スポーツ系の人って感じしないからなあ」
「よく言われる」
「でも実はボール持ったらすごいんでしょ」
「え、んん、今はどうかなあ……」
「でも素人よりは」
「いやあの、実はもう2年くらいボール触ってない……」
「嘘でしょダメじゃん!」
「ダメなの!?」
まだまだ青白い顔のが怒るので、公延は驚いて肩をすくめた。
「ダメに決まってるじゃん、公ちゃん私に散々『海外で働きたいっていう夢は捨てちゃダメだ』って言ってたじゃん、それと同じだよ。夢見たこと、好きなこと、大事なことは手放したらダメだって! 公ちゃんがそう言ってくれたから、私もまだ夢を見てもいいのかも、未来は自分の手で掴んでいいのかもって思えて、それで頑張ってるのに、公ちゃん自身が大好きなものを忘れようとしてるのなんて、ダメだよ」
至極真面目に憤慨しているに驚いていた公延だったが、やがて彼女の体を両腕できつく抱き締めた。
「公ちゃん……?」
親に逆らってまで選んだ進路という坂を上っていたけれど、4年後には今度こそ競技との決別が待っていた。気付けば坂の上のてっぺんが見えるほど坂は上っておらず、親に事後報告で選んだ仕事に就いてからはバスケットを忘れようと努める日々だった。
でも、忘れなくてもいいのかもしれない。いつまでも好きなままでいていいのかもしれない。そんな可能性に触れるだけで、15歳の時に感じた気持ちが胸の中で痛いほどに蘇る。もう自分は大人だから子供の自分は忘れようとしていたのに、自分の中には今でもこんなに「好き」の気持ちが燻っていたなんて。
いつしかの手が自分の背中を撫でていて、それがやけに心地よかった。
翌日、痛みはすっかり楽になっていたが、は思い立って登校し、保健室で相談してみることにした。養護教諭の先生は40代後半くらいの女性で、取り立てて優しい印象もなかったけれど、が母を亡くして結婚したことも知っているので、病院へ行く前に相談する相手としては最適だと思った。
相談を聞いた先生は割と無表情だったが、それでもが理解できる言葉で丁寧に指導をしてくれて、来月の試験本番に備えて出来ることを色々教えてくれた。
「あ、さん、お母さん亡くしてるのよね。今後こういう相談が出来る人はいるの?」
「母と同じくらいというのは……身近な女性はいるんですが」
「そうか。結婚してるって言っても相手は男性だからなあ」
「一応、色々助けてはくれます」
「あらそう、それならまあ、及第点と考えてもいいかな。具合が悪いって言えば休める?」
「はい。今はまだちょっと過剰な感じですけど」
「ま、それで困ることもないしね」
の結婚を知る教員は少なく、担任副担任学年主任、校長教頭とこの保健室の先生だけ。その中でも彼女が一番無反応だ。それが一番いいな、とは感じていた。今は自身の体調についての相談なのだし、余計な詮索は不要だ。
「だったらさん、今後は自分が自分の一番の理解者になることをおすすめします」
「理解者……?」
「自分の平均、ボーダーライン、いつもどんな感じなのか、弱いところ、強いところ、苦手なもの」
そんなこともう知ってるのにと一瞬思っただったが、
「進学を希望してるんだし、まだ遠い話とは思うけど、子供は考えてる?」
「……はい、いつかは」
突然尋ねられての心臓がドキンと跳ねた。そうとしか答えられなかったけれど、今はまだ考えてないとか、わからないとは答えたくなかった。の中には既に「いつか」への強い気持ちがある。生理に関する相談に来たのに、それを隠しても仕方ないと思った。
「だとすればなおさら、医療とは別の意味で自分の専門家になることが、あなたの体の安全を守ることになると思います。今回の生理もそのひとつ。将来の妊娠に対してもそう。他人の体験談の真似は無駄ですよ。自分の心と体のサインを見逃さずに、適切なところで休んだり、自分に合わせたケアをしたり、そういう日々の積み重ねがあなたを守ってくれるから」
そうか、公ちゃんはあんまり緊張しないっていうけど、私は緊張するし不安になるし、それも私が覚えておいた方がいい私なのか。納得したはうんうんと頷いた。夫は助けてくれるけれど、自分で言ったように男性の彼が生理について理解しきれるわけもないのだから、自分がそれと付き合う術も覚えていかねば。
それがいつか、お母さんなしで妊娠出産する時に活きてくるかもしれないから。
「いつか」の気持ちは強くあるけれど、自分が子供を持つなんてことは上手くイメージも出来なかったし、どこかに「面倒そうだな」と臆する気持ちもある。「いつか」の気持ちは自分の可能性への挑戦が終わってしまったその先にあるもの、という感触だけ。
けれど先生の言う「日々の積み重ね」がそこへ連れて行ってくれるのだとしたら、いま公延とふたりで躓きながら一歩ずつ毎日を送っていることが、それを助けてくれるに違いないと思った。
そして自分を知ること。それも可能性に挑む学びの中のひとつのような気がした。