「人のいないところで何やってんだよ」
「の意思確認」
「……まあそういう行動力があるから起業とか出来るんだろうけど」
改めてふたりから連絡を受けた木暮は、また風呂上がりの髪をかき回しながらため息をついた。梅雨明け予想が出た7月の夜は蒸し暑く、つい風呂上がりに缶チューハイを飲んでしまう。缶のプルトップが引き上げられ、ため息とともにレモンの香りが漂う。
「いや別に私、提案はしてるけど、嫌ならそう言ってくれればいいだけの話よ」
「公ちゃんとガチの恋愛話とかしたことないから、どういうスタンスなのかとかわからなくて……」
「それもそうだし、決めるのは本人の自由なんだから、それは無理強いしないよ」
「それはわかるけど……てかあの子、本気でそんなこと言ってたの?」
「うーん、嘘ついてもしょうがないし、その場のノリって感じもしなかったけど」
「まじか……」
缶をテーブルに置いた木暮は曇り気味なメガネを外して顔をペロリと拭った。子供の頃からメガネ生活だが、実はド近眼というほどではない。なのでメガネを取ってもそれほど印象に変化がない。
「てか嫌ならちゃんと言ってほしいんだけど」
「嫌というか……」
「別にオレたち公ちゃんが実はゲイなんだって言い出しても驚かないよ」
「そういうわけじゃないんだけど……」
歯切れの悪い木暮は何度も顔を擦り上げるとメガネを戻し、チューハイを煽ると肩を落とした。
「とりあえず、ちゃんは何の問題もない。彼女がどうとかいう話じゃない」
「まあ公ちゃんて女の好みにうるさいタイプじゃないしね」
「あと、正直稼ぎには自信ないけど、生活も出来ると思う」
「も倹約生活は慣れてるしね」
「だから現実的に可能か不可能かって言ったら、可能なのは事実」
それは全員が納得の見解だ。高梨夫婦もうんうんと頷く。
「ただ、大前提として彼女が成人してても女子高生ってとこ」
「まあね〜」
「オレもまだ若者割から抜け出て2年てとこだけど、そもそも高校教師だし、立場がセンシティブすぎる」
「あはは」
「笑いごとかよ」
かつて人間社会における女は男を支えるための存在であり、子孫繁栄のために可能な限り子を産まねばならず、妊娠から出産と乳児期の子育てに生母が欠かせない事情もあり、成長したら結婚をして妻となり母となり、夫と子供のために生きるのが望ましいというのが「常識」だった。
しかもそんな生き方をする上では夫の社会的地位や収入が高ければ高いほど、女の負担は軽減した。夫がどんな人間であるか、それが女の幸福に直結する。かつての常識の中ではそれがまた常識だった。
それを突き詰めると、女が一体何歳だろうと、若くて収入も社会的地位も低い男よりは、はるか年上でも安定した収入と揺るぎない社会的地位を持つ男に嫁ぐのは「良いこと」と考えられていたし、娘を持つ親は多くの場合それを望んでいた。古くはそれが勝ち組でもあったわけだ。
あるいは夫がかなりの年上で姑が死んでいたら最高、さらに夫が早く死んだらもっと最高。結婚はほとんどの場合において成人の義務であり、成人年齢に達するよりも成人としての通過儀礼であり、本人の意志よりも親の意思が尊重される場合もあり、遠く昔には、結婚は現代のそれとは概念から異なっていた。
そんな価値観がまかり通っていた時代の話であれば誰も悩まないのだが……
「本心では論外だよ。高校教師が女子高生と結婚なんて、現実には障害が多すぎる。そりゃ、オレがちゃんを気に入って懐柔して洗脳して……っていうグルーミングではないけど、誰がそんなこと信じる? きちんと説明しても『きっと女子高生が好きだから高校教師やってて、その延長でとうとう女子高生に結婚させたんだろう』って思われるのがオチだ」
なのに即拒否が出てこない……という事情は高梨夫婦も想像がつく。
「ただ……彼女には今、逃げ道がない」
「そうなんだよ……」
「それを思うとキリちゃんが突飛な思いつきに縋りたくなる気持ちもわかる」
「公ちゃんのそーいうとこ好き」
3人は揃って「しょんぼり」という顔になった。キリエの思いつきは言うなれば禁断の最終奥義なのだ。
「ちゃんのことは中学の時に勉強見たくらいしか知らないけど、頑張りやで素直ないい子だなと思ったよ。そんな子が母親を亡くして、義理の父親に召使いにされてて、能天気に遊びまくっててもいい時期なのに、オレみたいなのと結婚するしか将来を切り拓く手段がないなんて、力を貸してやりたいって思う。それがこんな極端な方法でないなら、オレだってふたつ返事で協力できるのにって思うよ」
こういう優しさを持っていることも、キリエが木暮を選んだ理由のひとつである。キリエとシュウジだけでなく木暮も合理的なタイプで、そのぶん自己管理の一環ともなれば冷静な取捨選択を厭わないという側面はある。けれど木暮は大人の時間を生きるほどに、少しの善意が持つ価値を強く感じるようにもなっていた。
「それに……ちゃん本人がそう言ってるのならなおさら、オレは嫌だ、って言うことが怖い。彼女は頭のいい子だから、オレがそう言うことの意味をきちんと理解すると思うけど、それでもオレがそれを明確に意思表示することは、彼女にまた『自分はひとりぼっち』だと強く思わせるんじゃないか、そんな気がして」
木暮が現代の大人として真っ当な判断をすることで、が「やっぱり私なんかじゃだめだよね」と思ってしまったら。母親はいない、父親は関心を持ってくれない、行くあてもなく進学も出来ず、孤独な自分を受け止めてくれる誰かはいない――そんな感覚を逆に強めてしまうのは、本意ではなかった。
「だからって、彼女と結婚したいとは思ってないよ。それは変わらない」
今が100年前ならともかく。今はもう、「常識」は変わってしまったのだから。
そんな経緯でと木暮双方の意思確認が終わったわけだが、その結果、高梨夫婦は余計に呻く羽目になった。の窮状をなんとかしてやりたいが、結局なんらかの問題が含まれる展開しか思いつかない。
そんなものいつか時間が解決するさ、就職したら収入が得られて案外楽しい毎日が送れるかもしれない、良い出会いがあって素晴らしい恋をして結婚するかもしれない、未来は白紙、自分の未来をどんな色に染めるかは今を生きる君次第だ! さあ、明日に向かって羽ばたこう!
「私あーいうの大っ嫌いなんだよね〜なんの解決にもなってない〜」
「キリちゃんはそういう人だよね」
「要するに勝手にやれってことでしょ。困ってる人に手を貸すって発想がないのよ、みんな」
「自分の生活が苦しいから他人の支援なんかしてられないんだよね」
「チャリティ意識の低さは世界トップクラスってか〜」
自分たちも生活はギリギリであり、築38年のマンション住まいである高梨夫婦は畳に転がったまま愚痴を零していた。ふたりの意思確認によりの四面楚歌が一層くっきりとした他には何も残らなかった。
「でまた公ちゃんは何やってんのよ20時には着くって言ってたじゃん」
「実家で捕まってんじゃない?」
この日は連休中日の日曜で、木暮は実家に届いたお中元のお裾分けを高梨夫婦に届けてくれと要請されたらしく、だけど用があるから夜に届けるよ、という連絡が来ていた。が、もう20時はとっくに過ぎている。木暮が来たら一緒に食べようと考えて夕食がお預けになっているので、キリエはぐうぐう鳴る腹を撫でて文句を言いっぱなしだ。空きっ腹に酒は酔いがひどくなるのでシュウジに飲むなと言われているのもつらい。
なので21時近くなって木暮が大きな段ボールとともに現れた時、キリエは飼い主が帰ってきた時の犬のように喜んだ。段ボールの中身はほとんど食品、あとは洗剤、そして木暮の両親からの差し入れ。倹約生活で削ると言ったらまずは食費なので、これに勝る「お裾分け」はない。ありがたやありがたや。
「この間さ〜物価高で節約しなきゃね〜とかいう話になってさ〜アレンジそうめんの話になってさ〜いいレシピあるよとか教えてくれたからさ〜あとで見てみたらさ〜ウニとイクラ使ってんのよ〜普通に声出して『バカじゃねーの!?』って言ったよね〜その人にとってはそうめん食ってるだけで節約らしいんだわ〜」
アルコール解禁になったので早速飲んでいるキリエは、木暮家からのお裾分けであるそうめんの箱を抱っこしてゆらゆら揺れている。今年の木暮家にはそうめんが4箱届いたので、息子に一箱、高梨夫婦に二箱という配分になった。酒をやめればたまにはイクラくらい買えるのでは、と木暮は思ったが、黙っておいた。
早くも酔い始めているキリエを横目に、木暮はシュウジが作ってくれたタコライスを美味そうに食べている。
「公ちゃんも生活地味だよね。節約とかやってんの?」
「そんなに厳格には。付き合いとかもあるし。ただオレは金のかかる趣味がないから」
「バスケの試合とか見に行かないの? チームメイトでプロになった人いるんでしょ」
「行くこともあるよ。でもそんな頻繁じゃないし」
最近の木暮の一番の大きな買い物は車なのだが、何しろ合理的、週末にしか乗らないカッコイイ車を買ったわけではなく、安価で燃費がよく荷物がたくさん積める軽自動車なので、月々の支払いはそれほど大きくはない。なので余計に実家には堅実な家庭を築けると思われている。
「てか昔からそうだよね公ちゃんて。贅沢にあんまり興味がない」
「そうなのかな、自分ではよくわかんないけど」
「なんていうんだろ、同じ外食でも高い方が価値があるって思わないタイプっていうか」
「だって近所の定食屋の方が安くて美味いし」
「だからそこだよ」
「シュウジだってそういうところあるじゃん」
「オレは濃い味が苦手だから、自分で作った方が美味しいってだけ」
というよりそれは木暮とシュウジが互いに母方のいとこ同士であり、ふたりの母である姉妹が習ってきた祖母の味が薄味、という事情がある。ふたりの祖母は日々の料理に大変うるさく、シンプルで野菜を多く使った優しい食事に勝るものはないという主義。なので自然とふたりも素朴な味を好むようになってしまった。
「でも、学生やってる間は極限まで節約を心がけてたよ」
「まあちょっと強引なひとり暮らしだったしね」
「……そう、あの頃は自分の可能性を試したいっていう欲求が、強かった」
木暮は高校だけで競技バスケットを終わらせることが出来ず、大学も競技を続けられる前提で選んだ。自己管理の鬼だったので受験自体は大きな問題もなく済んだのだが、実家からでも通える距離の学校だと言うのに、彼は家を出た。寮の方が高価だったので、洗濯機外置きのアパート暮らしだった。
「自分には無限の可能性があるとまでは思ってなかったけど、人生の方向を決めてしまうには早いって感覚はあったし、まだ自分は人間として固まりきってない、その形が変えられなくなるまでは、どんな型にも嵌りたくないって思ってた気がする。それを模索するためなら、節約なんか苦にならなかった」
そういうところが結局シュウジに「地味」と思われるわけだが、つまり服や宝飾品に大金をつぎ込むだとか、ゲーム環境のために数百万かけるとか、そういう金の使い方をしないタイプ。貨幣は概念、モノは道具、食い物は燃料。なので面白みがないといえばない。
「今までの彼女とかどうだったの。そういうの」
「うーん、貧乏だもんねみたいなことは言われてたけど」
「どういう理由で別れてきたの? えーと、高校出て以降」
「そんな何パターンも持ってるわけじゃ……」
「学生ん時にふたりいたのは知ってんだよ」
「そうだったっけ……」
ちょっとげんなりした様子の木暮はしかし、頬を指で掻きつつ、元カノの記憶を引っ張り出す。
「ふたり目の方は単に進路別れっていうのかな、向こうが大阪勤務になったからそこまで。お互いそんなに執着なかったんだよな。だから……ひとり目の方がちょっとこじれたってことになるかも。W二股かけられてたみたいで、でもオレ気付かなくて、向こうのカップルの女の子が気付いて揉めてたんだけど、関わりたくなくて」
シュウジは口元に手を当てて「フフェ」と笑いを堪えている。W二股をかけていた彼女に怒るでもなく、当時の木暮はまだまだバスケットが第一だったので、さっさと見切りをつけたわけだ。
「ただ、そのふたりのおかげというか、自分では好きだと思ってたけど、実は全然惚れてなかったってことに気付いてさ。普通にカップルやってたと思うんだけど、オレの心は彼女たちよりバスケットに向いてた。今やっと少し競技への未練を忘れられてきたな、って思うくらい」
木暮が恋愛よりもバスケットに執心している頃、シュウジは仕事場でキリエと出会ってコンビを組まされ、一応後輩である彼女に振り回されていた。懐かしそうに目を細め、お裾分けのカルピスのボトルをボウリングのピンのように並べている妻を眺めつつ、シュウジは小さく頷く。
「なんかそれわかるな。好きと惚れるって、ちょっと違うよね」
「惚れるの方は未だによくわかんないけどな」
「オレのキリちゃんへの想いがそれよ」
「いやまったく参考にならない」
「てか就職以降は知らないんだけど」
「えっ、いない」
「マジで!?」
「いや忙しいんだって」
「なんか同僚がとか後輩がとか言ってなかった?」
「それ勘弁して。迷惑してんだから」
「なんだよそれちょっと詳しく」
「やだよそんな話」
「いいじゃん聞かせてよ幼馴染じゃんいとこじゃん」
「関係ないだろ〜」
木暮とシュウジがそんな話でキャッキャしていると、ほろ酔いのキリエの携帯が鳴り出した。つい全員で覗き込むと、なんと。一瞬で気まずい空気が流れたのだが、すぐにキリエの目がカッと開く。現在23時過ぎ。そんな時間にが通話をかけてくるなど、異常事態だ。
「はいっ、もしもし!? !? どうした!?」
「キリちゃん、ごめんなさい、助けて、今そっちに向かってる」
「わかった、どこ!? 遠くなら車で行くから!」
「ううん、もう福祉センターのバス停過ぎたから、ごめん、家行っていい?」
「あたりまえでしょ!!!」
は涙声で、木暮とシュウジは片手で口元を覆って青ざめた。他人が支援してやれるのも限界があるし、そもそも自分たちは近親というほどでもないし、という意識は常にあった。けれどこんな時、成人している18歳の女の子がひとり助けを求められる場所がここしかないなんて。
「私ちょっと迎えに行ってくる。あとよろしく!」
「えっちょ、キリちゃん!」
キリエはTシャツにジャージのまま、スマホを掴むとサンダルをつっかけて走っていった。
「オレ、帰った方がいい……よな?」
「えっと……帰りたい?」
「よくわかんない」
「オレはちょっといてほしいかも。高校生のこととか、わかんないし、たぶんキリちゃん暴走するし」
「ちゃん、気まずくないかな」
「あれ以来あの話はしてないから、大丈夫だと思うんだけど」
しかもが通り過ぎたと言っていたバス停は本当にマンションの近く。そそくさと帰ろうものなら、それを見られてしまう可能性の方が高い。だったらまだ挨拶くらいは挟んで退去した方がいいはずだ。木暮はそう考えて納得はしたものの、落ち着かずにダイニングをウロウロしていた。
そこへ玄関ドアが開く音がしたのだが、同時にの泣き声が聞こえてきたので、また木暮とシュウジに緊張が走った。なにか起こってしまってからでは遅いのに、起こってしまってから助けても傷は消えないのに、自分たちが良識ある大人をやっていたせいで取り返しのつかない事態になっていたのではあるまいな。
キリエに抱えられながらダイニングに入ってきたは見るからに着の身着のままで、走ってきたのか汗だく、手にはスマホしか持っていなかった。
「、ほら、公ちゃんだよ」
「せん、せえ……」
「久しぶり。もっといい時に会いたかっ――」
「先生え!!!」
「ふお!?」
シュウジはああ言ったけれど、声をかけて帰ろう、そう思っていた木暮はに抱きつかれて思わずホールドアップのように腕を上げた。だがはかすかに震えているようだし、木暮は慎重に肩に手を置くと、幼い子供をあやすように背中をザッと撫でた。
「もう大丈夫、ここなら安心だから、キリちゃんに服、借りたら」
「そだね。、シャワー入りなよ。今日はうちに泊まっていきな」
「食べられそうならタコライスにカルピスもあるよ」
そう声をかけられたは木暮から離れると、頷いて頭を下げ、バスルームに消えた。そして15分ほどで身支度をして戻ると、赤い目をしたままカルピスを一気に飲み干し、大きく息を吐いた。
「今日は、ひどかった。怒鳴られて、物を投げられて、出ていけとか、死ねとか、言われた」
想像できたことだったのに、そこから遠ざけることは不可能ではなかったはずなのに。はやっと安心できる場所に落ち着いて楽になった様子だったけれど、それを聞いていた木暮と高梨夫婦はよりがっくりと肩を落としていた。後悔先に立たず、もしかして事態は自分たちが思うより逼迫しているんじゃないだろうか。
気付けばがダイキから召使い同然に扱われ始めて1年が経とうとしている。1年間もこのには誰も手を貸せなかった。自分のことだけ考えて毎日を過ごしていてもいい17歳を、は誰にも助けられることなく過ごしてしまった。
その時間はもう取り戻せない。の人生にはきらきら輝く17歳の記憶は存在しない。