それはそもそも、エマの持論だった。
「人って、自分に味方してくれる人を『優しい』とか『善い人だ』って思い込む生き物なのよ。間違いを犯そうとしている時に、やめろって言うんじゃなくて、協力してくれて、なんなら罰から庇ってくれる人を異常に評価しちゃう生き物なわけよ。自分の尻拭いをしてくれる人が好きなのよ」
レオン様沼に転落する以前、エマはとある芸能人を推していたのだが、不幸にも推し始めて3ヶ月程度でその推しが逮捕された。容疑は交際中の女性に対する暴力と、彼女の家への不法侵入。付き合っていれば罪ではないと思っていた模様。しかし被害者が被害届の提出を拒み、痴話喧嘩として不起訴処分になると、エマの推しはSNSで「自分は無罪でした。潔白を信じてくれた人々に感謝します」と書き込んでしまい、違う意味で炎上した。
それを目の当たりにしていたエマはそれでも顔のいい男に惹かれる自分に呆れつつ、つまり人は自分が憤っていることや困っていることに対して、一緒に怒ってくれる人に親近感を持ち、信頼を寄せるようになり、好意を抱きやすい、という結論に至った。
「腕かなんか触ってさ、あなたは悪くないのとか言えばいいんだなって。カルトの勧誘みたいだけど」
そんなエマのご高説がなぜか印象に残っていたは、サクラ先生とキラリの話を聞いて以来、話がその方向に流れる度に、彼女たちに困っている公延に同情し、解決策を一緒に探り、少しでも上手く彼女らを振り切れるよう、親身になった。それが少しでも公延の心に響けばいいなという下心で。
なので無駄に彼女らの情報を得ることになり、は大袈裟に言って恋敵であるサクラ先生とキラリの人物像については、ちょっとした知り合い並に詳しくなっていた。
まさかそれが役に立つなんてね〜。は真顔でそんなことを考えていた。
「私、あなたのこと聞いたことないんです。つまり、隠してたってことでしょ? 職場の同僚にも言いたくない、知られたくないっていう存在なわけですよね。パートナーいない人間でいたかったってことですよね」
元々平日の夜間の予備校や塾には、一度自宅に戻れる都合から私服で通っていた。夜間に人通りの少ない住宅街を通過するのに、制服姿よりは安全なのではと夫婦で話し合った結果だった。それが不幸中の幸いだったわけだが、は最寄り駅でサクラ先生に捕まっている。キラリが相手かと誤解していた彼女は、実際は幼気なだったので、余計に憎悪をむき出しにしている。
もうここまで来たらストーカーじゃん。公ちゃん明日には教頭にチクった方がいいって。
そろそろ10月も下旬に差し掛かっているが、まだまだ暖かい日が終わらないので、は手にアイスカフェラテのカップを持っていた。プラカップのボディが汗をかいてボタボタと雫を垂らし、足元に染みを作る。それをちらちらと見ながら、はどうサクラ先生を追い返したものかと迷っていた。
真実をバラしすぎても夫が困るだけだし、かといって彼女が納得できるほどの説明を返さなければ引き下がりそうにないし、その塩梅が難しい。こういうの、エマだったら得意なんだろうな〜
「で、結局、どういうご関係なんですか? 木暮は同意してる関係なんですよね?」
そしてこの身内気取り。はやけに冷静な頭で話を聞きつつ、それにしてもおねーさん美人だな、公ちゃんこーいう絵に描いたような美人でも中身がダメだと付き合えないタイプなんだな、ちょっと損な性格なんじゃないのかな、なんてことを考えていた。
サクラ先生は可愛いというより「美人」と形容するのが一番似合いそうな顔に、しなやかそうな体、まさに白魚のような手をしていて、まさかこんなヤバめな奇行に走る人物には見えない容姿をしていた。でもちょっと古めの美人かな、昭和の女優って感じ、きれいなのに服とかちょっとモッサリしてる。
「あの、その前に、どちら様ですか」
「私? 私は同じ職場に勤める者ですけど? 付き合いはそろそろ2年になります」
「そうですか。私は元々遠縁にあたり、子供の頃から親しいんですが、何か問題がありますか?」
それも嘘ではない。中学3年生は未成年なので子供で間違いない。遠縁だったのも事実。まさかが高校3年生だとは気付いていない様子だし、口調の強さを見るに年下だとは思っているようだが、遠縁で子供の頃からという対抗しようのない反撃に怯んだ。すかさずは畳み掛ける。
「私もあなたのことは聞いたことがないです。彼は自分の職場のことをほとんど話しません。プライベートに職場の人間関係は持ち込みたくないようだし、普段の友達付き合いも学生時代の部活の仲間が中心だし、公私混同しないだけなんじゃないですか」
というかサクラ先生は特に初対面から公延に警戒されてきたので、公延に関する個人情報の手持ちが極端に少ない。なので実際の公延のプライベートはほとんど知らず、過去にバスケットをやっていたなんていうことも、他の先生からの又聞きだった。
だが、分が悪いことが目の前で明らかにされても、悪い意味でサクラ先生も諦めが悪かった。
「それって、あなたが嘘をついてないって証拠はあるんですか? 証明できないですよね」
「……出来ますが」
「だったら今ここでしてみてください」
「個人情報なのでお断りします」
「ほら、やっぱり出来ないんですよね?」
の身分を証明するものには確かに彼女が「木暮」であることが記されている。だが当然が現在18歳であることも記されている。見せるわけにはいかない。かといって、証明出来ないことの何が問題だというのだろうか。はしっかりと呼吸を繰り返して腹に力を入れる。
「他人のあなたに何の証明をする必要があるんですか?」
「た、他人じゃないですけど」
「ただの職場の同僚ですよね。同僚って家族かなんかなんですか? そっか、家族。彼の母親を呼びましょうか」
「え!?」
そういえば姑は私に甘かった。はいい思いつきに気が楽になり、スマホを取り出した。
「それとも彼のいとこにしましょうか。幼馴染の。当然ご存知ですよね」
「し、知ってますよ、会ったことあります」
「名前も言ってください。いとこ夫婦と仲がいいんですけど、ふたりの名前を言えますか」
言えるわけがないのにサクラ先生もしつこい。口をパクパクさせてド忘れしたなどと言いながら、頭の中ではなんとかしてこの女を打ち負かす手段はないのかと必死で考えてるに違いない。なんでそんな無駄な労力を。
「言えないですよね。全部嘘ですもんね。学校の先生がこんなこと、まずいんじゃないですか」
ヤマトの件で学んだは、そう言い捨てると歩き去った。いつまでも相手をしている必要はないし、それにもう22時をとっくに過ぎている。住宅密集地最寄り駅なので人は多いけれど、暇ではないのだし、早く帰って夫と話して風呂入って寝たい。
なので振り返りもせずにバスに乗り、心配する公延からのメッセージに帰宅途中だと返信をし、エマにもメッセージを送り、キリエのSNSにいいねを押す。それだけで忘れられるわけでもないけれど、少しだけ気が楽になる。私たち毎日自分のことで精一杯なのに、こういう変なやつって次から次へと、ほんとうざい。
この間ヤマトの件で頭きてた時は公ちゃん思わず抱き締めてくれたけど、今日は無理だろうなあ。ていうかこのことどうやって話そうか。聞いたら気分悪くなるだろうし、あんまりそういうの聞かせたくないんだけどなあ。私が教頭に言ってもいいなら言うんだけどな。あんたのとこの先生、おかしいんですけどって。
そんな風にげんなりしたがバス停からとぼとぼと歩いて自宅に向かい、ふと顔を上げると、置いてきたはずのサクラ先生が門扉の前に立ちはだかっていた。
の帰りが遅いのでリビングでソワソワしていた公延は、自宅の門が立てる音に飛び上がり、玄関に向かおうとした。だが、そのまま家に入ってくるはずのの声が聞こえたので、つい足を止めてカーテンを引いた。瞬間、声を上げてしまいそうになった公延はバチンと手を叩き付けて口元を覆い、カーテンを引き戻した。
なんでサクラ先生がこんなところに!? ていうかなんでと話してんだ!?
全身から血の気が引き、体温が感じられなくなって、口の中が一気に乾いてしまった。そこそこ平穏に生きてきた公延にとって、人生最悪の恐怖だった。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く早くなり、気が遠くなる。
この時迷わずに飛び出せなかったことは公延の後悔として残り続けるのだが、それだけ感じたことのない強い恐怖で、まだ高校生で18歳のを守ってやらねばという意識は完全に消失していた。カーテンを掴んでいる手が震え、首筋に汗を感じた公延の耳にはしかし、とサクラ先生の声が聞こえていた。
「これ以上足を踏み入れたら通報しますよ」
「なんでそんなことされなきゃいけないの。入っちゃいけないっていうの」
「そうですよ。私有地です」
「あなたは入っていいのに? おかしくない?」
「……自宅なのでおかしくないです」
我を忘れ、タクシーでの乗るバスを追い越してきたサクラ先生は常軌を逸したことをまくし立てているが、言えば言うほど墓穴を掘るので半泣きになってきた。
「じっ、自宅って、一緒に暮らしてるだけでしょ。ここは彼の家なんだから」
「……もうやめませんか。わかるでしょう、これがどういうことなのか」
わかりたくないサクラ先生の門扉を掴む手が白くなっていく。
「私たちは結婚してます。知らなかったのなら、あなたに報告する必要はなかったということです」
は門扉を掴む彼女の手をゆっくりと剥がし、肩を押して下がらせると門を閉めた。
「もう二度と、彼に構わないでください。ここにも来ないで。あれは私の夫です」
そして振り返って鍵を開け、玄関に入った。
「、、いま」
「ただいま。見てた? あれサクラ先生だよね」
「どうして、なんで彼女」
「明日、教頭先生に言った方がいいと思うよ。駅で捕まって、さらにここまで追いかけてきたから」
ダイニングチェアにリュックを置いたは手を洗うと、冷蔵庫から冷たいお茶を出して一気に飲み干す。いらん緊張や怒りで喉がカラカラだ。そしてコップを手にしたままリビングへ入り、カーテンの隙間から門のあたりを覗いてみる。サクラ先生はいないようだ。
「私が高校生ってことはバレてないと思うけど、ごめん、結婚してるって言っちゃった」
「な、なにも、されてない、よな?」
「それは平気……て、公ちゃん顔真っ青だよ、大丈夫」
リビングとダイニングの境目で壁に寄りかかっている公延は血の気が引いたままで、真っ青な顔をしていた。よく見れば手も白い。常軌を逸した人間を目の当たりにしたことがないので、突然目の前に現れた異常に頭がついていかれないんだろう。
不幸にもは実の父親や元義父が異常極まりない人物だったので、ちょっと慣れている。
「怖かったよね。明日ちゃんと教頭先生に話してね。穏便に済ますとかいうレベル超えてる」
「それは、うん、もちろん、話す」
「……もし結婚隠してたって言いふらされたら、ごめん」
「いや、そんなこと、オレのせいなのに」
「なんでよ。公ちゃんのせいじゃないでしょ」
先日キラリに対して初めて毅然とした態度を見せただけの公延にとっては、もっと早くしっかり対応していれば、こんな怖い思いをすることはなかったのに――と思えて仕方なかった。だとしてもサクラ先生やキラリの行き過ぎた言動の抑制にはならなかったかもしれないが、後悔は募る。
サクラ先生が実力行使に出なかったからよかったものの、もしこれで逆上して刃物でも振り回されていたら、が怪我をしたり命の危険にさらされていたかもしれない。それを考えるともっと血の気が引く。こんなことが原因でに何かあったら、彼女の祖父母たちになんと詫びればいいのか。
そんなことを考えて自分の前髪を握り潰していた公延の手に、の手が重なる。
「公ちゃん、大丈夫だよ。公ちゃんのせいじゃないから」
「……高校時代、ヤンキーと部員の喧嘩は怖くなかったのに、サクラ先生を見た瞬間」
「……わかる。普通の人ですって顔して異常なことされると、頭まっしろになっちゃうよね」
高校の時にバスケ部員とヤンキーが揉めた末に大喧嘩になったことがある、という話はも聞かせてもらった。その時は公延も怪我をしたと言うけれど、それを話す公延はどこか楽しそうで、青春の1ページの記憶になっているようだったが、サクラ先生の自宅突撃は別次元の恐怖だったらしい。
あまり冷静でなかったんだろう。手を握ってくれるを公延は抱き締めた。
「ああいう人間、見たことなくて、こういう体験した人も知らなくて、まさか本当にやる人がいたなんて」
「……実際に見るまでは、遠い世界の出来事だと思うよね」
「ごめん、ほんとにごめん、自分がこんなビビりだなんて、思ってなかった、情けない」
「ビビりなわけじゃないよ。誰だってあんなの怖いって」
が背中を撫でてくれるので落ち着いてきた公延は、我に返って身を離した。
「……自分では、しっかり出来てるって思ってた。大学入った時に家を出て以来ひとり暮らしをしてきたし、だから社会人としての暮らしは一人前に出来てるって思ってた。でもオレは全然ちゃんと出来てなかったし、軽く考えてたし、深く考えてなかった。この結婚だってそう。勢いだったかもって、後から思ったって、遅いのに」
突然結婚のことに話が流れたのではギクリと肩をすくめた。嘘でしょ、離婚とか言わないよね。
「、オレはもう二度と目の前の問題を甘く見ない。ちょっとくらい大丈夫だろって思って放置しない。少しでも変だなって思ったらちゃんと相談するし、出来る限りの対処をする。こんな風に何も出来なくて、に守ってもらうなんてこと、しなくてもいいように」
離婚ではなかったので安堵しつつ、はまた公延の腕を撫でた。公延の持つ楽観性は決して悪いことではなかったのだが、たまたま悪い方向へと作用してしまった。それはが慰めても納得できないだろうし、他人への親切のつもりが逆の結果を招くということがあるのを知るのは必要だった。
「あんまり思い詰めないで。それに、私が公ちゃんを守って何が悪いの。家族じゃん」
「だけど……」
「私を公ちゃんに守られてるだけの役立たずにしないで。それじゃ私はいつまで経っても大人になれないよ」
公延が動揺しているのをいいことに、もっと抱きついてくっついていたかったけれど、は大きく息を吸い込んで我慢する。公延にとっては宇宙人に遭遇したレベルの恐怖だったのだろうし、その気持ちはよく分かる。
公延は目の前の「18歳の女子高生」に比べたら当然充分な大人である年齢の自分というものを過信していたのかもしれない。ひとり暮らしの実績があるだけで上手く世渡りが出来ていると思ったのかもしれない。けれどそうではなかった、そのことに気付けたことがふたりの暮らしをまた一歩進めるのかもしれない。
いつかの逆だね、そう言って笑ったは公延を誘ってまたカフェに出かけた。今度はドライブスルーではなく、騒がしい店内で向かい合って喋った。サクラ先生ではない他人がたくさんいて、それぞれがコーヒーやらを楽しんでいる眺めが公延の恐怖を溶かして消し去っていく。
翌日、公延は朝イチで教頭に事の次第を報告した。サクラ先生は出勤して来ず、連絡も取れず、緊急連絡先の実家に電話が繋がってようやく病欠という申告が出たが、手遅れである。全て把握してるから仮病なら来なさいと怒られていたが、その日は姿を見せなかった。
そしてさらに翌日、サクラ先生は早朝から校長室で校長と教頭にこってり絞られた。本人の態度次第では問題が大きくなるかもと危惧していた公延だったが、意外にすんなりと自分の非を認めたサクラ先生は以降、公延に構うことはなくなった。校長と教頭ふたりに怒られて、さすがに堪えたらしい。
なので一気に肩の荷が下りた公延はその日、駅前の店でケーキを買って帰った。
塾から帰ってきて驚くに礼とともに差し出し、一緒にそれを食べた。
ケーキと紅茶とコーヒーを挟んで、と公延は「旅行してみたい場所」の話で盛り上がった。海外を含めるときりがないので国内に絞ったけれど、それでも話は尽きなかった。見てみたい景色、食べてみたいもの、訪れてみたい史跡。ケーキはすぐになくなったけれど、話は終わらなかった。
そんなどうでもいい話が公延の恐怖を洗い流し、耳に母親の声を蘇らせる。
は史上最高の女。
それはまだ認めたくない事実だったけれど、毎日少しずつ公延の堅牢な心の鎧を削り取っていく。
思わず抱き締めてしまった時の安心感を、公延ははっきり覚えていた。自分では上手く対処できなかったサクラ先生を、まだほんの子供で守ってやらねばならない高校生のはずのが、あっさり撃退してしまった。そんな彼女を公延は無意識に「すごい」と思った。
それは公延にとって初めてを対等な人間として見た瞬間だったのかもしれない。
認めたくない事実を直視する勇気はまだ持てそうになかったけれど、を「パートナー」だと思う気持ちは以降、日ごとに増えていった。それはかつて赤木やチームの仲間たちに感じた「背中を預けられる」気持ちに似ていた。パートナー、相棒、バディ、言い方はなんでもいい。は信頼に値する人だ。
ファミリー向けアドベンチャー映画には「自分たち家族はチームだ」なんて台詞がよく出てくる。それぞれが得意なことを活かし、ピンチを切り抜ける最高のチーム。への信頼はそれに似ている気がした。彼女との「家族」は今、そういうもののような気がした。