私をダメにするあいつ(ら)

私、将来の夢は「社会的にも人間的にも自立した女」。

別に他人がどう生きようと興味はないけど、私は一度しかない人生を男の付属品で終わりたくないの。年寄りは少子化少子化ってうるさいけど、自分の人生は自分で決める。私は別に天才じゃないし、家が裕福ってわけでもないし、どこにでもいるような高校生でしかないけど、そういう生き方を目指してる。

もちろん恋愛なんか優先順位が下。高校生は恋愛しなきゃいけないみたいな圧が鬱陶しいけど、高校生の恋愛が全て良いとは決まってないでしょ。クソみたいな男に引っかかるかもしれないし。それに、性欲で恋愛するのは嫌なの。私が恋愛に求めるのは信頼や尊敬、精神的な繋がりで互いを高め合えるようなパートナーだから。

後悔はしないと思う。私には必要ないから。

いらない。

って思ってたんだけど……

いや待って別にその考えが変わったわけじゃない。今でも目指しているのは「社会的にも人間的にも自立した女」だし、そのためには結果が伴わない可能性が高い恋愛は優先順位が低いって考えも変わらない。

だけど今私の目の前にはそんな鉄の意志を揺さぶる誘惑が……

事実、寝不足だった。イトコにもらった文庫版ブラック・ジャック全17巻が止まらなくなってしまって、昨日も一昨日もちょっとしか寝てなかった。なので朝礼のときに目眩起こして膝から崩れ落ちたのは体調不良でもなんでもなくて、ただの睡眠不足だったんだけど、でもそんなこと正直に言う必要もないし。

幸い今日の授業は心配ない教科ばかり。だからブラック・ジャック読んじゃったんだけどね。授業中寝ててもいいかと思って。だけど保健室に連れてこられて寝てなさいって言われたので、大人しく寝てようと思う。保健の先生は特別授業があるから次の休み時間まで戻らないって言うし、静かでぐっすり寝られそう。

………………アーッ無理ー! まだ頭ん中ブラック・ジャックー!

そしてこの保健室という環境が私を否応なしにブラック・ジャックの世界へと引き戻す。このきっちり引かれたカーテンをサッと開けてコートをはためかせたブラック・ジャック先生が「患者はどこだ」って言いながら私をギロリと睨むっていう、ね。ね!!!

「無理ー!」
「え!?」
「は!?」

保健室には自分ひとりだと思ってた私は浮かれた声を上げ、そこに隣から男子の声が聞こえてきたので、今度は驚いて悲鳴みたいな声を上げた。次の瞬間、ベッドを取り囲んでいたカーテンが勢いよく引かれ、ブラック・ジャック先生ではなく、なんだか色黒のでっかい男子が現れた。えーっと誰だっけ。

「大丈夫か?」
「え、うん、大丈夫だけど」
「大丈夫そうだけど……無理って叫ぶから」
「ごっ、ごめん、ちょっと、事情があって」

そんなことを言いながら、思い出した。確かこの男子、あれだ、同じ3年生でバスケ部の牧だ。運動部は詳しくないから面識はないはずだけど、向こうはいわゆる「全国大会で優勝を争うような選手」だとかいう話だから、私が一方的に名前と顔くらいは知ってる、という人物。

でもここは保健室。毎日健康じゃないとダメそうな人がどうした。

「せっかく休んでたのに起こしちゃってごめん、具合悪いんだよね、寝て」
「いやその、実は、具合は悪くない」
「あ、サボり?」
「まさか。朝練の時になぜか鼻がむず痒くて、くしゃみが5連続で出たんだ」

先生もいないし、私と牧はそれぞれのベッドの上で座り込んだ。保健室は職員室との間に生徒相談室と資料室を挟んでいるので、喋っていてもどこにも聞こえない。

そして朝練中にくしゃみを連発してしまった牧は、全国大会の予選が控えているせいで後輩たちに大袈裟に心配され、保健室に担ぎ込まれて「もし風邪だったらシャレにならないので寝かせておいてください、進学先は内定してるので授業は大丈夫です」と置いていかれたそうな。なにそれお殿様じゃん、ウケる。

「どう考えても風邪じゃないと思うんだけど、聞いてくれなかった」
「あはは、でもいいじゃん、大事にされてて」
「それはありがたいけど、やり過ぎな気がする」

まあ秋も深まってきて涼しい風が吹くようになったし、11月に始まるという予選とその後の本戦が高校最後の全国大会だそうなので、後輩くんたちの焦りはわからないでもない。チームの大黒柱が風邪で不調では話にならない。しかし進学先内定済みとは、なんて羨ましい。

「えっ、2年生ん時に内定したの!?」
「まあ、最初のスカウトは中3の時だったし」
「どういう世界なのよ……

というかそんな選手がうちの高校にいた、ってことがびっくり。うちのバスケ部すごいとは聞いてたけど、ここまでだったとは。そんな別世界の同い年と保健室で向かい合わせになって雑談、という状況が可笑しくなって、なんだかニヤニヤしちゃう。

「そっちこそ大丈夫なのか、先生に連行されてきたろ」
「ンッ、あの、ここだけの話にしておいてほしいんだけど、実は」

立ち上がったらきっとすごく背が高いであろう彼は、私の「事情」を聞くと腕を組んだまま俯いて笑った。

ここだけの話にしておいてほしいんだけど……牧くん、二の腕の張り具合、いいですね……

いや何言ってんだ私! 保健室で初対面の男子の二の腕に見惚れるとか正気か!

「えっと、C組のだったよな?」
「え、なんで知ってんの」
「え、だってそれは――……すまん! 忘れてくれ!」
「はあ?」

なぜか「知ってて当然だろ」とでも言いたげだった牧はいきなり慌てた。私の知る限り、牧とは接点がまったくないはずだ。同じクラスになったこともないし、共通の友人もいないはずだし、牧はともかく私は校内で名を轟かすような目立つ活動なんかもないし。

だが、明らかに「やっちまった」という顔をしている牧はそれを誤魔化したいのか顔をそらした。顔をそらすと、首筋がくっきりしますね? 牧くん、ブレザー脱いでシャツで寝てたようで、シャツのボタンが2つほど開いてまして……いいですか、そこにね、高校生とは思えない筋肉がですね……

うわ、ちょ、だから何でそんなとこ見てんだよ私は! 女と見れば胸を確認するおっさんか!!!

まあでも確かにこれは雄っぱい……

ダァ――――ッ!!! やめろ!!! いますぐ見るのをやめろ!!!

待て待て待て。私はそういう本能丸出しで理性を失った性欲には屈しない! はい、落ち着こう。牧はこのように全国大会レベルの選手ゆえ、鍛錬を怠らない人物であり、そのためにこうして高校生とは思えない大きな体になり、あまつさえ豊満な雄っぱいなんていうものを持つに至った、それだけ。はい、雄っぱいの話終わり。

「ごめん、私忘れてるっぽいけど、なんか喋ったこととかあったっけ」
「いや、喋ったことはない、すまん、ほんとすまん」
「だよねえ。共通の友達とかいたっけ?」
「いやえーと」

こいつ何か隠してんな。それが見て取れるので、私は順調に雄っぱいを忘れた。今は雄っぱいより何で私を知ってるのかってことの方が気になるんですけど。すると牧はハァーっとため息をついて髪をグシャグシャとかき回し、ンッ、それもなんかエロいんすけど、忘れて、それは置いといて。

「これもここだけの話にしておいてほしいんだけど」
「わ、わかった、なによ」
「たぶん、1年の終わりから2年の始め頃だと思うんだけど」
「結構前だね」
「当時、バスケ部員だったやつが、その、好きだったんだよ」
「何を」

牧は言いづらそうに私を指差す。……ほ?

「その後怪我が重なって退部しちゃったし、そいつとは以後接点もないんだ。でも告白してないらしいって話も3年になってから聞かされてて、てか元バスケ部のやつと付き合ってたりしたか?」

私は首をぶんぶんと振る。まさか。ていうかバスケ部にいたやつに好かれるような高校生活じゃなかったぞ。

「すまん、そういうプライベートな話を部活ん中でするのあんまり好きじゃないんだけど、部室で話してるから聞きたくなくても聞こえるし、オレが興味なくてもそういう話になりがちで」

私に誰かが片思い、そういうこともあるのか……と思考がぼんやりしたせいで、あぐらをかいた膝に肘を置いて頬杖をつく、その牧の手首に視線が吸い寄せられていく。室内競技だっていうのにこの人ずいぶん焼けてるなあ……手ェでっか……唇ふっくら……

くっそ、どうしてもそっち方向に行きたいのか私の頭!!!

いやほんとマジでやめてほしい。私はこういう動物的な衝動に振り回されたくないの。下半身の感情で生きるのは嫌なの。愛は激しい感情ではなくて、ほっこりと優しい感情がいいの。信頼、ゆるりと、ひだまりのように。

そう、ほら、ブラック・ジャック先生とピノコと如月先生。理想すぎない? 復讐と生と死の間でもがく先生、幼児の体に押し込められた18歳、女性の機能を失っても消えない愛、そのどこにもいかがわしい性ってものはなくて、人の心と心が織りなすドラマは完全にプラトニック!

きっとブラック・ジャック先生とピノコは一生、性を介して愛し合うことはない。だけどふたりの間には限界まで高められた純度の愛がある。あれ!!! あれよ!!!

だからシャツの袖をまくるのをやめるんだ!!! しまえ!!! 腕も雄っぱいもしまえ!!!

私は……如月恵にはなれないのか……ていうか如月先生目線なのか私……

「ま、まあ、そんな話聞いたのも初めてだし、飽きたんじゃない? 気にしないでいいよ」
「すまん、だから顔と名前は知ってた、ってことで」
「私もそんなもんだよ。あれーバスケ部の人だよねーくらいの」
「そのくらいだと助かる」

静かな保健室に私たちの笑い声が響く。

改めて保健室。そのベッドの上でこんなエロい男子と談笑とかどうなんだろうか。

いや、てか牧ってエロいの? 校内それなりに友達はいるけど、あんま「バスケ部の牧っていいよね」とか聞いたことない気がする。うちらの学年で運動部だとサッカー部にすごい人気の男子がいるし、牧はキラキラ王子様ってタイプじゃないから、キャーキャー言われてる印象はないんだけど、実物を目の前にしますとね……

でもたぶん、この牧を過剰にエロくさせているのはきれいに焼けた肌と筋肉と唇のせいだと……えっ、ちょ、泣き黒子あんの、やべーなおいエロスの神器完全装備かよパンイチに剥いてオイル塗りてえな

だから!!! 発想がダサすぎないかって!!!

いやダサくなければいいとかいう問題でもなさすぎ。事実同い年であるはずの牧は制服のシャツの上からでもわかるほど均整の取れた体をしていて、胸元や二の腕はしっかり筋肉がついてるけれど、手首やお腹のあたり、腰なんかはわりとスリムで、剛と柔が共存してる。それがさあ……

昨夜ブラック・ジャックに没頭してた私はさ、あのデフォルメされきった絵柄にどこか色気を感じていて、大袈裟な肉感を伴わなくても言葉や感情で色艶が表現できるものなんだなと、思っていたのよ。

だがそこにある肉々しい物体に勝てない……

てか私のこの異様な興奮状態って睡眠不足なんじゃなくて、牧がなんかフェロモンみたいなものを放ってるとか、そういうことない? この人そういうのめっちゃプンプンさせてそうじゃん。それをたまたま睡眠不足で防御力低下している私が受信してしまって、それでハァハァ言い出してるんじゃない?

そうだそうだ、きっとそうだ。だからきっと保健室出たら忘れる。気の迷い。気のせい。

「というか、ブラック・ジャックってそんな面白いの?」
「まあうん、3日くらいほとんど寝ずに読んでしまったくらいには」
「手塚治虫読んだことないんだよな」
「てか漫画読むんだ……
「え、漫画は読むだろ」

また揃って笑った。だって私、運動部って寝てるか食べてるか練習してるかみたいな人なのかと思ってたんだもん。しかも牧は漫画読んでそうに見えなかったから。

「あ、バスケの漫画とか?」
「そういうのも読むけど、寝付けない時とかはユルい方がいいんだよな」
「ブラック・ジャックはとても重い……
「重いのに面白いってすごいな。気になってきた」

やけに食いつきがいいので私はネタバレにならないようにブラック・ジャックの魅力を語った。それを牧はそこそこ真剣に、でもちゃんと相槌や質問を挟みながら聞いてくれた。それが心地いいので雄っぱいやら泣き黒子やらを忘れてたんだけど、ふと我に返って気付いた。

同い年だというのに……包容力がハンパねえのな、この人……

まあその、かなり大人っぽい風貌をしてるから、余計にそう感じるだけなのかもしれないけど、なんていうの、大人の余裕っていうの? 落ち着いていて、動じないっていうか。

そうなの。正直いって、ブラック・ジャック先生は最高に魅力的なダークヒーローだけど、すごく不安定なところもあって、私は無意識に如月恵の目線でそれを見ながら、先生はかっこいいけど、でもこんな不安定な人とは親密な関係にはなれないなって、思ってた。

どんなに振り回されても邪険にされても愛してる、なんて私には無理。どれだけプラトニックに崇高な精神愛で結ばれていても、男を支えるだけで満足してる女なんかには絶対なりたくない。対等でいたいの。どっちかが上とか下とかじゃなくて、隣に並びたい。

しかしこの「寄りかかってもいいよ」と言わんばかりの包容力がダダ漏れている牧に鼻息が荒くなっていくのを止められない。もしかして、こんなムラムラ来てる私でもあの両腕を広げて受け止めてくれるんじゃないかって、そんな期待をしてしまう。それって対等とは言えない気がするのに。

私はいま、保健室のベッドで差し向かいとかいうクソエロシチュに寝不足で正常な判断力を失っている。

湧き上がる衝動に、大事な自分自身も失いそう。

「え、ほんとにいいのか」

いいの。いいのよ。もういい、私は抗えな――えっ、なんだっけ?

「いやだから、本当に借りていいのかって」
「あ、うん、読み終わったし、もともと貰ったものだし」

牧はブラック・ジャックに大いに興味を持ったらしい。で、正気じゃない私はブラック・ジャック文庫版全17巻を貸してもいいよ的なことを口走ったらしい。ちょっと記憶ないんだけどね。

「でも17冊って……文庫でも重いよな」
「まあそうね。でもまあ、大丈夫じゃない?」

なんなら数冊ずつでもいい。そしたらまた会えるじゃん。と思っていたのに。

「家、近かったら、取りに行ってもいいか? がよければ、だけど」

そんなことをちょっと視線を外してはにかみながら言われた私はどうすればいいの。

こんなエロエロ大魔王がうちに来ちゃうの? 私服だったらどうすんの私? 玄関先だけで帰れると思うなよ?

「全然いいけど、そんな暇、あるの?」

牧の唇がふわりと緩み、泣き黒子が少し跳ねる。

「ほら、オレ風邪引いてるらしいから」

ダメだこれ、私こいつのせいでダメんなるわ。

END