その後、教室で友人相手に大きな声で「か〜っ、マジで女ってのはわけわかんねえよな!」と言って仰け反っていた清田だったが、それを背中に聞いていたは再度体調不良レベルの緊張や恐怖や苦痛に耐えていた。友人たちにも悟られたくないし、自分でも早くこの苦痛から自由になりたかった。
そのためには、清田から離れなければならなかった。
秘密会議で一緒に過ごすこと2ヶ月以上、いつしかは崇め倒していた神先輩ではなく、清田に恋をしていた。それに気付いた時はショックのあまり泣いてしまった。
心から敬愛する推しだったはずの先輩から気持ちが離れたこと、よい友人といった関係だった清田に惹かれてしまったこと、このままでは神先輩推しも清田に恋も出来ないこと、そしてこの状況を終わらせるには、神先輩からも清田からも離れなければならないこと。全てが最悪だった。
どれも大事なものだったはずなのに、一気に失ってしまう。しかも自分のせいで。
かといってこんな話は同じ高校の友達には話せない。夏休みの間、は祖父母の家で一緒になったいとこや中学時代の友人相手に全てブチ撒けることでなんとか自分を保っていたが、新学期になってしまったら強制的に同じクラスで顔を合わせなければならず、さながら毎日が地獄の責め苦であった。
とはいえ清田は暇を持て余した高校生ではなく、秘密会議で聞いたところによると年末まで大会が続くらしく、冬休みが明けたら少し余裕ができるものの、春休みには遠征があるとか言っていた。それをひとつずつ待ってはやり過ごし、1年生さえ終われば、クラス替えが待っている。
クラスさえ違ってしまえば、清田との接点は消滅する。もしまたが練習に見学に行ったところで、清田が声をかけてこなければ、またもとの名もなき群衆のひとりに戻れる。そしていつかほろ苦い思い出だけを残して清田への気持ちを忘れれば、この苦痛も消える。きっと時間が解決してくれるはずだ。
だが、喋ったこともない先輩を推すくらいしか出来なかったの、ある意味では本当の初恋だった清田への気持ちを手放さなければならないのはつらかった。なので、区切りをつけたかったは、こっそり国体を観戦しに行った。これで終わりにしよう。やっぱり私には影からこそこそしてるのが合ってる。
予選の時はコートの中の神先輩を目で追うのが精一杯だったというのに、今度は自然と清田を見つけて、見つめて、そして心をときめかせた。彼と話しているのが楽しかった。自分を飾らず偽らずにいられたし、なんでも話せたし、なんでも聞くことが出来た。
女の子でもそんな相手、見つからないよ。きっと一生見つからないよ。
今は差し入れひとつ来ない子供っぽい男子だけど、きっといつか私のように彼に心を奪われてしまう女の子がたくさん現れる。そうやって海南のスター選手への階段を登っていく彼を、私は本当に遠くから、声も出さずに応援しよう。そして彼のためにこの恋心を捨てなければ。
恋の記憶は、大きな手がそっと私の頭に触れた、あの一瞬だけ。それだけで。
が観戦した試合は神奈川代表が勝利し、試合終了時にはベンチにいた清田は見知らぬチームメイトとジャンプして喜んでいた。そして先輩らしき選手から肩を叩かれ、ハイタッチで応え、嬉しそうに笑っていた。
身近なクラスメイトだけど、国体に出場しちゃうような人なんだよな……しかも1年生で。噂によれば、神奈川代表中の1年生はたった3名。清田はそのうちのひとりなのだとか。神先輩の件関係なく忘れなきゃならない世界の人だったんだよ、最初から。そう思えば忘れられるような気がした。
そんな切ない気持ちを抱えて会場を後にし、いくぶんすっきりして月曜日を迎えただったが、そのせいで油断していたらしく、下校しようとした昇降口でまた清田にとっ捕まった。しかも腕を掴まれて引きずられ、階段の踊り場に連れ込まれた。残暑が厳しいというのに、の体が冷たくなる。
「ちょっと待って、なんでこんなところ」
「お前、国体見に来てただろ」
「え」
「神さんのこと、もういいって、あれ嘘なんじゃないのか」
「いやあの……」
久々に間近で見る清田につい胸が踊ってしまい、体は緊張で冷たいのに、頬がカッと熱くなる。
「やっぱりなんかあったんだろ? 2年生か? 1年の中でも派閥が出来たとか?」
「え、違」
「てか見に来るなら言えよな〜。試合前だったら時間あったのに。せっかくのチャンスを」
「待っ……」
「あ、そうだ、神さんそろそろ進学先決まるかもしれないぞ。確かお前外部受験――」
「ちょっとストップ! 違うから!」
「なにが」
弾丸トークの清田に手のひらを突き出したは息が上がっていた。
「あれ、は、最後に、見たいと思って、行っただけだから、本当に、もういい」
「だからそのもういいって、何があったんだよ。別の選手に乗り換えたのか?」
「そういうことに、なるのかな」
「だから誰よ、それ。海南の先輩? 代表の誰か?」
「……それは、言えない」
後輩として純粋に神先輩を慕っている様子の清田なので、あの神さんから乗り換えるほどの人物についてが気になるらしい。まさか自分だとは欠片ほども思っていないのだろう。そして歯切れの悪い返事しかしないに、また苛立ちが募ってしまったらしい。
「……友達だと思ってたのに、オレには言えねえってか」
は俯いたまま顔を背けて唇を噛む。
「てかなんなんだよ、秘密会議やってた頃は普通にしてたじゃんか。それを急にそっけなくなって、何も答えなくなって、オレ何かしたかよ? お前が純粋に神さんのファンだっつうから、協力してやろうって思っただけじゃん。そりゃ強引に差し入れしろとか言ったのは悪かったけど、だからって何も話してくれなくなって、もういいとか意味わかんねえ。せめて誰に乗り換えたかくらい知る権利あるだろオレは」
清田の言うことはもっともなので、はさらに俯いた。涙が零れそうだ。
「……あっそう。そんなに言いたくないわけね」
「ごめん、なさい」
「マジわけわかんねえ……オレが何したん――え、ちょお待て、何泣いてんだ」
「ほんとにごめん、清田は悪くないから、泣いてごめん、無視して」
「いや出来ねえって! なあ、話せよ、どうしたんだよ」
つい零れてしまった涙を払い落とし、は顔を上げた。清田が納得できることを言わなければ同じことを繰り返すように気がしたし、そのたびに彼を悩ませて惑わせるのは嫌だった。忘れなければならない思いでも、にとっては大事な恋だったので。
緊張はなかった。心配そうに覗き込んでいる清田をまっすぐに見て、は言う。
「清田のこと、好きになっちゃったの。だから、神先輩のことは、もういい」
清田は一時停止した動画のように固まっている。きっと理解が追いつかなくて混乱しているに違いない。
「怒らないで。もう近付かないし、必ず忘れるから。秘密会議、楽しかった。ありがとう」
そして深々と頭を下げた。神先輩には緊張で挨拶すら出来ない自信があったけれど、清田とは気楽に喋ることが出来たし、そのせいかパニックを起こさずに伝えたかったことを言えた。そして正直に全て言葉にしてしまったら、苦痛が和らいだ気がした。
なのでそっとこの場を去ろう、と一歩下がった途端、手首を掴まれた。
「うわ、ちょ、そういうの勘弁して」
「いや待て、いつからだそれ」
「え? 期末の前だけど」
「一学期の?」
「期末ってそれしかないじゃん」
がぼそぼそ答えていると、清田は鼻が膨らむほど一気に息を吸い込み、
「なんで言わなかったんだよ、バカ!!!」
耳に痛いほどの声で怒鳴った。階段のせいで響きまくる。
「お前バカか! いや知ってたなオレ、お前はそーいうやつだって知ってたわ。てかさすがのオレでもその可能性はビタイチ考えてなかった。そこは普通に反省。オレなら十分あり得ることだったのに、神奈川代表の誰なのかってことばっかり気になってたわ。まあ神さんとオレって南極と北極くらい世界観違うから思いつかないよな」
は弾丸トークにポカンとしつつ、秘密会議に戻ったかのような清田の声に凝り固まっていた心がゆるりと解けるような気がしていた。なんか落ち着く。緊張もなく苦痛もなく、自分の中身のバランスが整っていく。
「言えるわけないじゃん、そんなの。言ってどうなるわけでもないし」
「あのな、オレがこの夏どれだけ傷付いてたと思ってんだ」
「そんなの私の苦しみに比べたら大したことないから」
「お前オレのこと好きなんじゃなかったのかよ」
「だから辛いんだろうが。てかもう引っ張らないでよ、はい終わり終わり」
気が楽になってしまったが手を振り払った瞬間、目の前が真っ暗になった。清田に抱き締められていた。
「ダメ、終わらせない」
「え、あの……」
「なんでもっと早く言わなかったんだよ……そしたら夏休み、一緒にいられたのに……」
冷えていた体が一気に熱を帯びて、は足元から這い上がる痺れに気が遠くなった。さっきまで弾丸トークでべらべら喋り倒していた清田の声は低く、ゆったりとしていて、異様に甘ったるく感じた。なにこれ、熱が出たみたい、ぞくぞくして、熱い、胸の奥が潰れそう。
「だって、モテないなんて、絶対今だけ」
「そんなのもういい。そういうのより、と一緒の方がいい」
ぎゅうっと強く抱き締められるのは少し苦しかったけれど、それと同じくらい清田のことを抱き締めたくなった。恐る恐る両腕を伸ばすと、あの自信に満ち溢れた背中に指が触れる。
「ふたりでいるの、楽しかったから、急に無視されて、すっげ悲しかったし、親友なのかもて思ってたのオレだけだったのかと思ったら、すごい苛々してたけど、でもそれって、オレもと離れたくなかったからだったんだよな。それもう、好きってことじゃん」
そして清田はにしか聞こえないくらいの囁き声で言う。
「神さんよりオレを選ぶなんて、、お前やっぱすげえよ」
夏休みの間にほとんど話さなかったせいか、その後しばらくふたりは喉が枯れるほど喋りまくった。国体が終わってちょうど中間の時期でもあったので、一緒にテスト勉強しながらもとにかく喋り続けた。
そんな中でふたりがたどり着いたのが、ふたり揃って神先輩推しである、という結論だった。
本人曰く清田は「高いポテンシャルと生まれ持ったフィジカルと天から与えられたセンス」による選ばれし者で、北極と南極ほど違うという神先輩は「飽くことのない強い意志と努力で結果を出す」というタイプらしく、わりと自分の素質に寄りかかりがちな清田にとっては尊敬に値する選手なのだそうな。
という話になると、その神先輩のストイックな姿勢と芸術のようなシュートに以前から畏敬の念を抱いてきたは彼氏を目の前にして「そうなのそうなの神先輩尊くない」と口走ることになるので、「もしかしてオレたちって神先輩推しカップルなんじゃね」という結論に至った。
何時間喋っても飽きないほどお互いが好きで、推しも同じで、なんかオレらすげーカップルな!? なんていう付き合いたてのテンションで判断力が鈍っていたのか、テストが終わった週末、は清田に招かれて何の緊張もなく部室を訪れ、彼女として紹介してもらって挨拶と差し入れをし、付き合い始めた経緯も報告した。
「とまあ、そんなわけで、オレたちふたりで神さん推しって感じなんすよね」
「でも信長はあくまでも彼氏なので、心から尊敬して応援してる選手は先輩です」
「そういう感じでよろしくお願いシャッス」
浮かれたカップルのそんな報告を神先輩は優しげな表情で黙って聞いてくれたし、が用意してきた差し入れのサンドイッチも喜んで受け取ってくれた。
が、次の瞬間、清田よりさらに背の高い神先輩は片手で彼の顔をガッと掴んだ。
「おわ!?」
「つまり、貴重な真面目に応援してくれる人を、お前が奪ったわけだな?」
「え、ちょ、サーセン、あの、いたた」
「い、今でも真面目に応援してます!」
「でも大好きな彼氏は信長なんでしょ」
「えっ、あの、サーセン」
「神さん、あの、アイアンクローまじでいてえっす」
「痛くしてんだよ」
「あだだだだだだ」
「なんで女子で苦労してるオレじゃなくてお前なんだよ」
「すいませんすいません推し変なんて罪悪だとは思ってたんですが」
「いやさん悪くないでしょ、悪いのはこいつ」
「神さん! オレまじで神さん尊敬してっ!」
「お前はいらないさんみたいな彼女ほしい」
「ひどい!!!」
「先輩、大丈夫です、私なんかよりもっといい人います、私は信長くらいでちょうどいいんです」
「もひでえ!!!」
というわけで以後も清田は神先輩の取次店を続ける羽目になり、しかしそれをが助けられるわけもなく、はで熱心な神推しの見学者だったくせに清田に乗り換えたとして誹りを受け、しかもそれが全員先輩からの攻撃なので抗う手段に乏しく、無駄に疲れる日々を送った。
しかも女子で苦労している神先輩に懐かれてしまい、なにか困り事や手に負えないことがあると彼までふたりを頼るようになり、推しを名乗ってしまったからには断れないふたりの奔走は続いた。
そしていつしか清田が後輩たちにモテまくったかどうかは――定かではない。
END